レポート

西表★生活にもどる
Return to Iriomote Wild Days.


中島みゆきをひたすら歌い続ける 本企画のツアコン
だいすけ

自然の美しさ
美しい自然というものはある。理由はうまくいえない。ただ、美しいなと思う。山や海や川が好きだ。虫にさされ、汗にまみれ、湿っぽい空気にさいなまれながらも、清潔な街のくらしとは違ったある種の心地よさがある。

はじめはよくわからなかった。14年前、知床の半島を縦走していたときに身の丈を超えるハイマツの森にうちのめされた。複雑にからみあうハイマツの枝々は、たわむれに登山路をはずれたとたんに、堅牢な障害物としてたちはだかった。遠くから見るとまるで緑のじゅうたんのようなこの森は、立体的な迷路のように山肌を多い尽くし、人は、枝から枝に手足を絡ませながら、絶望的な空中前進を強いられる。

そこは決して快適な場所ではなかったが、山行の日程が許せば、もう少しその場にいたいと思った。もしこの先に進まなくてもいいのなら、知床岳の中腹のハイマツの枝に囲まれた洞窟のような小さな空間で、じっと座っていたかった。あくまで人の進入を拒絶するあの森は美しかった。

道というのは、たぶん、もっともプリミティブな人工空間だろう。たとえば山中で藪をこぎながら、突然道に出会うと、それがどんなにか細い道であっても、まわりの雰囲気が一変する。人のにおいを感じる。正直ほっとする。

沢登りの楽しさは、そういう道を使わないで山にアプローチしていくことだ。人くささを意識することなく、谷を遡行し自然を味わうことができる。

屋久島の永田川の光景は圧巻だった。川といっても、屋久島の場合、3000メートルの山頂から海まで一気に下る巨大な谷だ。広くて深いゴルジュの中央に屹立する杉の並木。青い苔におおわれた花崗岩とその上を滑らかにすべる透明な水。黒い背景から鮮明な赤で刺激するツツジの花。

そのころはよくわからなかった。ただ、こういう風景を見ることができる幸せを思った。ここは誰でもこられる場所ではない。人の営みを意識させない壮大な世界に酔っていた。

カヌーという手段を持ったとき、道がなくても移動できる楽しさを知った。石垣島から西表島に渡り、さらに西表島の西部に向かった。白浜という部落を最後に道は途切れていた。その先の入り江や岬をカヌーで経巡り、崎山とよばれる場所で海を埋め尽くすサンゴの群落を見た。いろとりどりのエダサンゴはちょっと足でふれるだけで脆く壊れた。

それは目を見張るような美しい光景なのだが、だれもが見られるものではないと思った。この自然は人々がサンゴ見たさに集まってくればあっという間に失われてしまうだろうと思った。だからこそ貴重なのだと。自然と人間とは一定の距離を置いて、はじめて共存できるのだと、そのころはそう考えていた。

自然との共存
しかし、ここで「しかし」である。その後、人類学の研究を通して海で生活する沖縄の漁師に出会い、台湾、マレーシア、ソロモンをまわるうちに、こうした考え方のどこかに決定的な間違いがあると思うようになった。ソロモンでは、人が生活する目の前に、美しいサンゴの海が広がっていた。

たしかにサンゴは壊れやすい。だが人の生活だけがサンゴを壊すわけではない。波や潮や、サンゴを食べて生きる魚もいる。高温の海水が沖縄のサンゴにダメージを与えた事件はまだ記憶に新しい。サンゴはそれでも再生する、再生をくりかえす。

自然というのは元来そういうものだ。

人の暮らしと美しい自然は両立しうる。むしろ、それを忘れてしまっていること自体が、近代以降のわれわれがもつ自然観のもっとも大きな問題点なのではないか、いつのまにかぼくはそう考えるようになった。

自然を保護する対象に考えたり、観賞すべき理想郷に見立てたりする新しい自然観が、近代がめざしている人工空間にすむ人間たちよって、より強く信奉されているという「いびつ」な事実こそが、まさしくこの問題点のひとつの傍証となる。

エコツーリズムの問題
最近、自然の体験学習やエコツーリズムという言葉をよく耳にする。自然と人間とのかかわりを考える新しい試みを、ぼくは一定評価する。通り一遍の観光旅行ではなく、地域の人々が伝承してきた知恵や、自然科学的な知識を身をもって学習する。こうした試みに参加する真摯な姿勢は悪くないと思う。

しかし、エコツーリズムにはどうしても気になる点が二つある。ひとつはツアーと言う以上、それ自体経済という枠組みから逃れられないこと。まあ、これはしかたないかもしれない。経済を盾に強引なやりかたで自然を破壊していく「開発」に対抗するためには、同じ土俵で勝負するしかないからだ。

もう一つは、生活の視点。エコツーリズムに参加して「自分たちは自然の生き物たちを守りながら観賞した」と思っていても、たぶん、それは自己満足にすぎない。宿に帰ってきてシャンプーで髪をあらい、クーラーのよくきいたレストランでステーキを食べる。その肉がどこでどうやって作られているかは知らないくていいし、ペンションの裏から流れる廃水がどうなっているかは、宿屋の主人任せである。

一般的に自然破壊は、常に自然に接して生活している人が起こす場合よりも、自分の行為が自然に対してどういう影響を与えているのか気がつかない場所で起きている場合のほうがずっと深刻だ。漁師が毎日100匹の魚を捕まえることよりも、牧場でまかれる農薬や、水際につくられたコンクリートの防波堤のほうが、より多くの魚たちを潜在的に殺している。


一時期、日本の昆虫少年たちが、希少な虫を絶滅に追い込んでいると批判されたことがあった。中学時代のぼくは、その批判を真に受け昆虫少年から足を洗った。しかし、その後、ハッチョウトンボのすむ沼があった里山は、新興住宅地のために造成され、回復不可能な形で破壊された。残された丘陵地の一部も、自然をテーマにした万博をおこなうために、まさに今ブルドーザーが蹂躙している。さすがの昆虫少年たちも、とてもそこまで根絶やしにはできない

あまりよい例ではないかもしれないけど、こうした顕在化した破壊と潜在化した破壊の違いは、殺人と戦争の比喩がわかりやすいかもしれない。人を殺した者はまるで悪魔のように扱われその残虐性は顕わに語られる、しかし一方で戦争は国家の正義の名の下に美化され、まぎれもないその属性であるはずの殺人行為は見えないところに隠されてしまう。どちらがより多くの人間を殺すのかは明白なのに。

車がなければ運べないようなアウトドア用品を買いそろえて、「地球にやさしい」のスローガンのもと洗練されたスタイルとして自然保護を唱える人たちが、直接自然に対峙しながら海や山で生き物を捕らえ生活している人々の存在を、自然破壊の元凶と考えているのであれば、それは皮肉というよりはむしろ悪質なすりかえだ。今ぼくが研究しているイルカを巡る自然観の問題はまさにその典型である。

話をもどそう。

自然に生きること
ぼくがさまざまな地域のフィールドワークを通して一番印象に残っていることは、口に入るものから出ていくものまで、あらゆるモノの流れが自分たちが手の届く身近で起きている、自然が密着した生活である。森の木でカヌーをつくり、イルカを追い、カメをとらえ、集めたヤシの実でスープをつくる。

そして、日本において西表という場所は、そういう生活をするのにもっともふさわしい気がする。今回はぼくにとって5回目の西表訪問だ。われわれが滞在した西表の西部には、つい数年前まで恵勇さんというおじいさんがひとりで生活をしていた。「文化」を研究する人類学者にとっては、すこし特殊な相手かもしれないけど、この恵勇さんの生き方にはずっと魅了されていた。南洋の生活と日本の生活の接点を見ているような気がしたのだ。

恵勇さんはエコロジーだのツーリズムだのとは無縁の、たんなる森の隠者だった。お酒を飲み、物語を楽しんで、狩をする。つまり「生きる」以上のことはあまりしない人だった。

ぼくは、はじめて西表にきたとき、探検という言葉をふりかざしながら石垣島からカヌーをこいでやってきたのだが、訪問をかさねるたびに、こんな気負いはむしろ捨てて、ただ静かに生活してみるほうがいいんじゃないかと考えるようになっていった。

今回の旅もその延長にある。

むろんこの生活とてあくまで疑似体験に過ぎない。食料自給といっても米や酒はもっていくし、薪が使えない時はガスも使う、滞在する時間だって限られている。ある程度はしかたがない、われわれは生活のプロではない。しかし、いろいろな妥協のなかからも、それなりに「美しい生活」のありかたが見えてくる。「ここでガスを使っちゃあ、ちょっと美しくないよな」そんな余裕がでてくれば、まずは成功である。

雨が降れば飲み水は濁り、魚が捕れなければおかずはない。ゴミや排泄物について否が応でも考えなければならない。明日の天気や、月や潮、そして自分の体調を常に意識させられる。

ここから生活がはじまる。森や海や星の美しさや、獲物を捕るときの躍動感、夜や海にたいするおそれ、そんな、ふだんよく見えなかったものがくっきりと見えるようになる。そして、世界のリアリティは飛躍的に広がる。

こんな、「身体」から「自然」にいたる森羅万象の世界が、ほんらい人間が生きてきた「環境」である。そして、ぼくにとって近代の突破口はここにある。

なんだか、ちょっと理屈っぽいけど、ようするに楽しいんでしょ?だったらそれでいいんじゃない?


海に燃える料理隊長 フィンがないと意外に弱い
かわばたちゃん

去年から、待ちに待った西表島のでのキャンプ生活だったが、朝から晩まで海辺での暮らしが五日間、非常に充実した日々だった。以前の計画では、4、5人の精鋭達による正にサバイバルなキャンプにする予定で、私も鍛えてもらう位のつもりで居たのだが、実際はそれからは程遠いものになってしまった。13人のメンバー中、男の中では歳を喰っている方になる私も、リーダー格の一人になっているではないか。これは思わぬ誤算であった。無責任に遊び呆けていようと思っていたのだが。

13人もの集団生活では仕事の責任も大きいが、それより気になるのは、もしもの事故のことだ。海であまり遊んだことのない人も多い様で、皆かなりなめている。知り合いが若くして水死したり、自分でも危ない経験をしている私とはかなり感覚が違う。今回のキャンプ中も何度かヒヤリとした場面があった。皆気付いているかな?(本当に団体行動は難しい)スキンダイビングの基礎を教えるように頼まれて、私にも問題がある事に気付いた。教わったことのない私が教えるのである。考えてみるとダイビング技術など全部我流なのだ。知らない内に覚えてきたものや、わずかな情報から体験して覚えたもので、練習の仕方とかも正直よく解らないところが多い。泳ぐより先に潜っていたぐらいなのだから。

キャンプ生活についても同じような事が言える。今回のキャンプしていたメンバーで、私が10数年キャンプをしていないことを誰が信じようか。米を焚き火で炊くことなど、すっかり忘れてしまっている。実はそんな人間なのだ。しかし、今回のような環境でも、私はリラックスし、自然体で楽しんでいた気がする。キャンプをしたり、あち、こちの、自然の中に入り込んだりした経験は少ないのだが、自然の中で生活することになぜか慣れている様だ。その理由を帰ってきてから考えたのだが、構えること無く自然と対峙できるような生活環境に非常に恵まれていたような気がする。

中学校時代の私の夏休みといえば、毎日のように近くの海に潜りに出かけていた。ダイビング道具、おにぎり、お茶、醤油、焚き付け用新聞紙、ライターこれらが我々の海遊びの装備だ。昼飯のおかずは流木を集め、バフンウニ、ムラサキイガイ、つぶ貝これらを拾った金網の上で焼いて食べる。今考えても最高の昼飯だ。地元小樽の海も、南の海の豊かさとは違う豊かさが有る。これは、今も帰省する度に続けている。その頃と今回の西表島での海遊びもそれ程変わりはない。進歩したことといえば、ヤスを持ち魚を突くことと(これはまだまだ修行中)、酒を飲むのを覚えたくらいか。

大学時代の山小屋でのアルバイトも同じ様な経験だ。白山国立公園の標高2450m白山室堂での私の生活は、延べ300日程にわたる。春の連休前の6m積もった雪を掘る作業から、千人以上の宿泊者を迎える時もある夏、そして秋の初雪の頃まで毎年何度も登り降りした。風呂にもろくに入れない生活でも、非常に楽しく快適であった。大自然のど真ん中、山はいろいろな姿を見せてくれた。自然の力の凄まじさ、恐ろしさ、素晴らしさは私の想像を遥かに上回るものであった。

こんな、私にとって日常の一部になってしまっていた様な海、山での生活は、今の自然との接し方を作り上げてきたようだ。自分では今まで殆ど意識していなかったのだが。(周りに居たのが似たような連中ばかりだったからか)昨今のアウトドアブームの中で、自然と遊ぼうとしている都市生活者たちとは全く別の感覚のようだ。大袈裟な道具や、難しいことを考える必要など感じない。(もう少し考えた方がよい気もするが)

今回の西表島のキャンプ生活、悔やまれたのはナイトダイビングをしなかったこと(やっぱり酒の飲み過ぎか)、食料を買い過ぎたこと(私の責任も大)ぐらいで、事故も無く非常に楽しく過ごせた。西表島の珊瑚は、去年の伊良部島と比べると白化現象の影響でだいぶ見劣りはするが、獲物は豊富である。貝類の収穫はまずまずであったが、やはり、魚を突くのは難しい。コツを掴みつつあった時には、もう浜を離れなければならなくなっていた。まだまだ潜り続けていたかったが。

魚突きのコツは、その後石垣の居酒屋(「はなき」絶対おすすめ!良い古酒有り)で隣に座った与論島出身(現在埼玉在住)のダイバーの人が教えてくれた。私の感じていた疑問点や、失敗の理由を解説してくれた。北と南のお互いの地元の海での遊びや、フリーダイビングの話などでもかなり盛り上がり、所持金の少ない私に沢山御馳走までしてくれた。やっぱり、海の男は気持ちがいい。最高さ!その教えの実践は残念ながら暫くの間お預けだ。

来シーズンはファルトボートを購入し、さらに活動範囲を広げする予定で、フリーダイビング、カヌー、キャンプこの3点セットの野外活動は、私に豊かな時間を与えてくれそうだ。(あまりお金を奪わずに)私の獲物を求めた海中散策は、今後もまたどこかの海で続くであろう。

団体行動っていうとちょっとあれだけど。ここで川端ちゃんがいいたいのは、むしろ自分の状況を正確に判断する能力のことだと思う。
安全を人任せにせず、危なそうだったら自制すること。今回の場合は、危険なことがあったというより、「特殊な状況で自分の不用意な行動が他人に迷惑をかける」そのへんに気づかない人がいて、ちょっと心配したね。
これって集団行動というより個人行動のバランス感覚だよね。しかしまあ、人間いろいろ経験しないと成長しないからね。弱小メンバーにしては、みんなよくやってたと思うよ。


どんな状況にも平然と適応しつつビール飲む
おーたにさん

西表キャンプのぜいたく
この感動が覚めないうちに書きとめておこう。と、さっそく帰りの「はるか」のなかで関空で買ったマクドナルドの紙袋を裏返して、全神経を集中させて書いた。書いておいてよかった。旅の感動を人に伝えるのは難しい。いつもそう思う。行ってきた先や、行ってきた人にさほど興味のない人に話をしても反応がいまいちで、なんかつまらない。今回もそうだった...。わたしはこんなにも楽しかったのに...。

本当のぜいたく
滝で顔を洗い洗濯をし、海の水でパスタをゆで食器を洗う。普段、食事を残すことをとてもためらうが、そこではそれを魚が食らいまたその魚を人間が食らうということになるので、自分も生態系の一部なんだな〜と実感しながら心おきなく残飯を海に捨てることができた。そこでは何もかもがぜいたくに感じられた。どこにでも洗濯干場はあるし、でっかいクワズイモやアダンのハッパはたちまちお皿になるし、トイレはちょっと人気のないところまで行かないといけないけれどとっても広いし、眺めはいいし、砂をシャッシャッと掻くのも猫になった気分だし、日常のなんでもない行為が妙に楽しく感じられた。「全ては終わりがくる」というのがわかっていただけに余計にそうだったのか...。

星空と中島みゆき
眠っていた人若い人、いや、思えばみんなにとって迷惑だったかもしれないけれど、星空の下で大介さんと中島みゆきの「寒水魚」をアルバムの曲順通りに延々とうたったことが今思い返しても感慨深い。大介さんとの接点がこんなところにあったとは...。そして、通勤の車の中でしか決してうたうことのなかった(もちろんひとりで)あの曲この曲をあんなにきれいな星空の下で大合唱(?)できたなんて...。中高時代に覚えたうたは忘れないものですね、大介さん。

一緒に過ごした皆様へ
大介さん、和人くん、しまださんを除いては、初対面の人ばっかりでしたけど、石垣島空港で、怪しげな3人(妙に大荷物な川端さん、妙に小荷物な小川君、あつさかさん)を追っかけることに始まり、最後みんなとバイバイするまで、何一つ嫌なことがなく、本当に楽しいことばかりでした。あのバスの待合いで、できることならずっとオリオンビールを飲んで、西表の余韻にひたっていたかったです。またみんなに会いたいです。本当に。

あの楽しさは、そこにいた人しかわからない。たぶん。
だから、ぼくもそれを共有できる人たちと、そこに行きたいんだと思う


なぜか去年の半分しか役に立たなかった男
かっくん

二年続けての西表キャンプ。去年は一人きりでテントもガスも持たずマット一枚で浜辺や川岸で過ごし西表を横断しました。しかし、今年は場違いなカーキャンプ用テントを引きずって大量の食料にも助けられとても快適なキャンプ生活を過ごせました。

今年の夏は、たくさんの事故を耳にしました。西表へ向かう前にも台風が琉球諸島へ向かっていました。西表キャンプで唯一の情報源はラジオ。しかし日本のラジオ電波は網取の奥までは届かず、持っていったラジオは全く使えませんでした。それでも運良く台風はやってこず、自然の大きな力に飲み込まれる事態は避けられました。ただ何度かスコールに遭い去年の無謀さをあらためて感じさせられました。

とは言っても、この自然は、見飽きることのない空を埋め尽くす星と、透き通るコバルト色の海で、僕等を迎え入れてくれました。来てしまえばあとはとにかく遊ぶ。ここに来たらこれしかないです。好きなこと、したいことを仕事にする。一緒に来たメンバーと海に潜って獲物を取ったり、料理を楽しくつくる、体験することがすべて仕事でもあり、遊びにもつながっていきます。仲間のほかに誰もいないこんな所でも、見知らぬ人との貴重な出会いもあり、何もないようで、本当にたくさんの楽しみが潜んでいます。

去年は二時間近くかかってようやく取れた手長エビ。一人で苦労をして取った一匹は、小さいながら最高に美味しいものでした。そんなことを思い出しながら、今年も海に挑みました。必死に潜って、カドヤ兵隊に追い込んでもらってとる事ができた魚が(名前は覚えてないです。)唯一僕の貴重な収穫でした。こんなちょっとしたことが、とっても楽しめて、いろんなものを与えてくれるような島です。一度行ってみることをお奨めします。きっとどこかに酔いしれるような楽しみが見つかると思いますよ。

今回の私は、人物紹介のとおり、昨年の半分しか役に立っていなように見えたかもしれませんが、その分西表での生活を楽しませてもらい、その中で将来を見つめ、とても充実した日々を送ることができました。また、仲間たちと楽しく、共感しあえることはとてもいい経験になりました。ありがとう。

それではみなさんの健康と幸せを願いまして・・・。

ウトゥーリまわさせていただきますってか?
おおっ将来を見つめたか、感心、感心。ところで誰と?
それにしても、台風対策はそれなりに練っていたけど、ラジオは入らなかったねぇ。台湾の電波が強すぎて。


都会生活のストレスを燃料にカヌーをこぐ 速い
シマダマキ

今年の竹川さんからの年賀状で「西表」の文字を目にして以来、夏は沖縄&西表に行くぞと決めていた。数年前に亡くなったと聞いた恵勇さんのお墓参りに行きたかったし、なにより、鈴を鳴らすようなカエルの声や、珊瑚礁の海で泳ぐ魚たち、数分おきに見られる流れ星といった西表の自然が懐かしかった。

西表のターザンと呼ばれた砂川恵勇さんと会ったのは7年前のキャンプでのこと。早朝、カヌーを漕いで小さな滝を見つけたり、岩にくっついた巻き貝を取っていたら、ウダラ浜あたりまで来てしまった。「この辺にターザンがいるんだって」という話をしていたら、本当に恵勇さんがいた。おじさんがジャスミン茶をいれてくれて、話しをした。自分の他にも夏になれば本土から来て一人で生活している人がいるとか、潮が引いたら珊瑚礁の上を歩いて白浜までお酒を買いに行くんだよとか、アダンの根は食べられるとか…。おじさんのゆったりとした口調、風になびく洗濯物、木枝に作られたブランコ、近くを流れる水量が豊富な小川。そこには必要最低限の質素な生活と、豊かな時間があった。それ以降、時間に追われて自分を見失いかけた時に、恵勇さんとその住まいを思い出すと、なんだか清々しい気分を取り戻すことが出来た。

西表キャンプも4日目の早朝、まさやんとカヌーでウダラ浜に行く。恵勇さんの旧居には、関西から来た中学の美術の先生と小学校の校長先生が、夏の間いっぱい住んでいた。白い髭を生やした雄弁な美術の先生は、恵勇さんとの出会いを語ってくれた。禅の「無為」を感じるために、テレビ番組で見た西表のターザンの生活に憧れてここに来たけれど、ターザンと呼ばれる本人は、人好きで、飲んべえで、最初の想像とは違った人物だったらしい。ところで、その住まいに目を移すと、恵勇さんの寝所だった小屋は台風で崩れて、先生たちが持ってきた文明的な物がそこかしこにあって、ブランコにはボートがくくりつけられ縄がちぎれかかっている。その様子が、はっきりと恵勇さんの亡くなったことを物語っていた。遺体は宮古島にいる兄弟に引き取られて、お墓はそちらにあるそうだ。でも、旧居には恵勇さんを慕う人が作った、手作りの記念碑がいくつかあって、魂は今もウダラ浜にあると思う。きっと。

今回の西表キャンプでは、初めて会ったメンバーが多くて、しかも若者が多くて、刺激的でした。普段、ふわふわ生活しているものだから、自分が年を重ねていることを忘れていたりするんだけど、自分も周りも変化しているんだなあと実感。浜べでお酒を飲みながら、星を見て、誰かが唄って、知らないうちに寝ちゃったりして…。時間を共有できて、楽しかったです。みなさん、ありがとう。

ホームページ「沖縄紀行1999」こちらもなかなか素敵です


装備忘れ皿まで借りる無能王 実績:まずいカニ2匹
おがわ

西表島日記
皆さん、こんにちは。僕は昨年の伊良部島に続き、今年も竹川先生を頼って沖縄の離島に行くことになりました。毎年恒例となっている(?)この「竹川ツア−」は、普通の旅とは一味も二味も違う体験ができること間違いなしの企画です。この度、今年の西表島の体験記をホ−ムペ−ジに掲載するということで、僕の西表島体験記を紹介します。

ちなみに、今年の西表島への旅は、単なる西表島ではなく、西表島の船浦という港から更に約一時間ほどいった、まさに無人島でした。はっきり言って、それを見た僕の第一印象は、「うそ!こんなところで本当に暮らすの?」と思いました。曲がりなりにも、昨年の伊良部島ではきちんと泊まる場所があり、そのイメ−ジで今年もやって来た僕はいきなり度胆を抜かれたわけです。

チャ−タ−した船のおじさんに5日後に迎えに来てくれるように告げ、「あ〜、本当に無人島生活が始まってしまうんだ」と、一抹の不安とそれなりの楽しみを感じつつ、僕はその第一歩を「僕たちだけの砂浜」に踏み出しました。

これから5日間、無人島生活を始めるわけですが、まずは、テント張り。浜辺から少し入ったところで雑草を斧で切り開き、テントを四つ張りました。僕はその中のひとつに男三人で川の字になって寝ていました。夜も蒸し暑くて寝苦しかったのですが、最も辛かったのは、南国の島だからなのか、朝と夜にスコ−ル状態の雨がザァ−と降り出し、そのあとは強烈な湿気がやって来るのです。

でも、こうした生活を送ることは決して辛いことばかりではないですよ。僕たちはシャワ−として、小さな滝の水で体を洗っていたのですが、その気持ちよさは最高です!その水は冷たくて、日焼けした体にはたまりませんでした。ちなみに、僕の坊主頭が一番役に立ったのは頭を洗う時で、この時ばかりは坊主頭で良かったと思いました。まあ、僕の頭の話はさておき、水って本当に気持ちいいものだなって実感しました。

寝場所、風呂場ときて、あと僕たちの生活に欠かせないもの。それはやっぱり食料でした。石垣島で多少の食料調達はしてはいるものの、最悪の場合を考えて初めのうちは大変質素な食事でした。何しろ13人の胃袋を満たすには、わずか5日間とはいえ、それなりの食料が必要なわけです。そこで当然、食料となる獲物を捕まえに行くことになるのですが、僕は全くと言っていいほど役に立ちませんでした。

昨年の伊良部島で、「獲物を持ち帰った人が偉い」という、まさに原始的な生活形態を体験し、「今年こそは獲物を捕まえるんだ〜。」と意気込んでいた僕でしたが、結果はさんざんでした。

まずは釣りの話。僕は大学の友人から釣り竿を借りて、やる気満々。しかし、実際には全く釣れず、そればかりか、隣で釣っていたマサやんが二匹も釣り上げた!僕は川端さんにさんざんばかにされ(島にいる間ずっとからかわれていたのだが)、食事の時はみじめになったのでした。その後、魚は全く釣れず、今から考えると、僕の釣り竿が役に立ったのは石垣空港で大谷さんが僕たちを見つけ出すのに目印となったことだけでしょう。

次にカニの話。僕たちは約1キロほど離れたとなりの浜辺に行き、カニを捕りに行きました。浜辺から少し入るとそこは深い沼地になっていて、歩くのに四苦八苦。しか〜し、僕はついにやりました!カニを2匹捕まえることに成功したのです!これで僕も少しは役に立ったかなと思いました。結果は、丸こげになり、いざ殻を取ってみるとどう見ても食べられそうにない黒い物体があり、僕の数少ない獲物は「廃棄処分」となってしまいました。余談ですが、カニを求めて上流へ移動している時、何と猫の足跡、つまり「イリオモテヤマネコ」の足跡を見つけてしまいました。このあたりにイリオモテヤマネコがいると考えると変に興奮しました。

最後にエビの話。竹川先生に連れられて、僕は滝の上流に行きました。けっこう厳しい道のりで、岩づたいに進み、「ファイト−、イッパツ」の状態でした。いざ着くと竹川先生はいきなりエビを捕まえ、僕は「ここなら僕でもいける!」と意気込みました。しかしその後は時間帯が悪かったせいか、小エビを一匹捕まえただけでした。

こうしてみてくると、みんなが着々と獲物を捕まえる中で、僕は食料調達に関して何も役に立っていないことになります。でもいいんです。僕としては、今年も普段体験できないことをできたわけですから。海に潜ってモリで魚を追っかけたり、カニを求めてジャングルのような道を歩いたり、エビを求めて滝の上に上ったり。僕としてはすごく満足しているんですが...。

それでは、今度は生活から離れて「遊び」の話をします。まず、カヌ−の話から始めます。カヌ−は竹川先生が持ってきていたもので、みんなに大変好評でした。初めてカヌ−に乗る人が多く(僕のその一人です)、とんでもない方向に進んでしまうこともありました。それでもカヌ−は僕たちの大切な遊び道具及び交通の足となりました。

ひとつビックリしたことがあります。それはまさかこんなところに僕たち以外に人はいないだろうと思っていたのに、ナント、近くの島でお祖父さんとおじさんがいるというではないですか!しかも、その人たちは中学校の先生と小学校の校長先生で、毎年夏になるとその島に来ているとのことでした。

それ以来、僕たちはカヌ−で参拝に行くみたいにして、代わる代わるその二人に会いに行っては話をして戻ってくるのでした。僕も会いに行きましたが、中学校の先生は三国廉太郎みたいな人ですごくその環境に馴染んでいたのですが、もう一人の校長先生は余り似つかわしくない人でした。話を聞くと、中学校の先生の方は帰る日が決まっていないとのことでした。アッパレ!こんな先生たちがいるんだって、ショックを受けました。学校が始まる9月には帰っているとは思いますが、いろんな人がいるなと思いました。

それでは、「竹川ツア−」の中で最も重要な行事である「酒宴会」について話します。僕は昨年、この「酒宴会」が行われる時間帯が近づくと恐怖感を覚えました。その時間帯はもちろん夜ですが、まず、いただくお酒はもちろん「泡盛」。皆さん御存知の通り、このお酒は強烈です。お水で割って飲むのですが、それでもその飲み方がまた辛い!沖縄、特に宮古諸島を中心に「オトゥ−リ」という、簡単に言えばお酒を回し飲みする風習があるのですが、これが延々と続くわけです。

今年も当然のことながら「オトゥ−リ」は行われました。しかし、今年は去年と違い地元の人たちとの交流がなかったのでいくぶん楽でした。お酒を楽しむことができました。皆さん、宮古島の人たちと飲む時は気をつけたほうがいいですよ。みんないい人たちだけど、とにかく飲む!ひたすら飲む!去年出会った人の話では何かのお祝い事があると、朝から夜中までひたすら泡盛とオリオンビ−ルで「オトゥ−リ」をしているそうです。実際、僕も地元の人たちにまじって「オトゥ−リ」をやりましたが、彼らの底なしに飲む姿は忘れません。お酒に自信のある方は宮古島に行くことをお勧めします。

話は脱線しましたが、今年はそんなに飲んでないと思いきや、竹川先生がすごかった!宴会はいつの間にか「中島みゆきのオンパレ−ド」となり、つづいて「なつメロ」へと移っていきました。竹川先生のあまりのテンションにみんなは爆笑でした。川端さんもかなり酔っ払っていたけど、「ホ−ミ−」で歌ってくれた時は感動しました。これはモンゴルの歌い方のようで、二つの声が一緒に出ている感じです。川端さんにはよくからかわれて困りましたが、この時はすごいって思いましたよ。

それからマサやんの歌のうまさに驚きました。「ザ・ブ−ム」の歌を歌ってくれたんだけど、夏の夜にすごくはまっててよかった。空も満天の星空で、僕はほろ酔いながら「あ〜、青春だ〜」なんて思っちゃいました。最後の夜は、予定外の食料過剰ですごく豪華な食事となり、竹川先生持参の花火を打ち上げ、みんなで花火をして静かに終わりました。

こうして無人島生活も終わったわけですが、もっといたかったというのが正直な感想です。普段の生活から離れることで、普段の生活のいいところも悪いところも見えてくるような気がします。僕は四回生で、来年は社会人なので来年も参加させてもらうのは難しいと思いますが、「竹川ツア−」では本当に貴重な体験をさせてもらったと思います。竹川先生には心から感謝するとともに、皆さんも「竹川ツア−」をぜひ一度味わってほしいと思います。

しゃれでツアーと言ってはみるものの、ほんとはツアーなんて思ってほしくないなぁ。体験させてもらうことではなくて、体験をすることが大事なんだけど。この微妙なニュアンスわかってほしいなぁ。
ところで、あの浜は正確には無人島じゃなくってよ。


おがわとのアバンチュール疑惑にゆれる
アチャカ

8月1日 小川君と一緒に高速バスで福岡へ。台風が沖縄に接近中。はたして飛行機は飛ぶのか?地下鉄で移動中和人さんから電話。飛行機の時間の確認でした。

ちょっと早めに空港につく。航空券を受け取る。なんと私の名前が「マツサカヨウコ」になっているではないか。就職活動をやっていないので、恐くて家族には秘密でやってきたこの沖縄旅行。万が一飛行機が落ちてもきっと親は気付いてくれないぞ。どうしてくれるんだ小川君。

飛行機は定刻通りに飛ぶらしい。同じ便の二人組(ミキちゃん&シンちゃん)がいるらしいが顔がわからず、探すのを諦める。さっさと搭乗手続きをすませる。そんなに早くすると暇になると言ったのに私の意見は聞かれず。することもないので待ち合い室でしばし本を読む。小川君は見ないと思っていたら喫煙所で一服していたらしい。読書の合間にちらちらと石垣にキャンプにいきそうな二人組を探すが、誰か見当もつかない。暫くすると背後から川端さん登場。去年沖縄で小川君と一緒に過ごしたらしい。そうこうするうちに飛行機に乗る時間になってしまった。川端さんとは席が離れてしまって別れる。飛行機のなかではひたすら寝る。

いざ石垣到着。無事に着いてよかった。石垣の太陽は眩しい。予想外に晴れていてびっくり。川端さんと再び合流してタクシー乗り場に移動。乗り場でおーたにさんと合流。後ろから「竹川さんの知り合いですか」って、ひとめでわかるのか。おそるべし。桟橋のところまで行くと、今日はパイナップルの日だかでパインの試食をしていた。うまかった。程なくして先生達あらわる。ミキちゃん&シンちゃんカップルもあらわる。空港で見た人だった。しかも機内では川端さんの隣だったらしい。なんという奇遇。荷物をおろして、近所の店へ必需品を買い込む。ここで予想外の出費。水中マスクが高い。おかげでマリンブーツまでは買えない。

買い物をすませたらとりあえず解散。私、小川君、ミキちゃん、しんちゃんは今日はホテルを予約しているので一緒にホテルに行く。スーパーホテル石垣島。ネーミングセンスがとっても素敵。思ったよりも新しくきれいだった。まるでワンルームマンションのようだったが。小川君と一緒に市内をぶらつく。商店街は楽しい。小腹がすいたので八重山そばなるものを食べる。いがいといける。セットの豆腐チャンプルーもおいしかった。食後に水中用の安い靴を探し求める。小川君付き合わせてすまない。何件かまわったあとにようやく買う。そのあと、小川君の要望で本屋に行くが、背後から竹川グループがつけていたらしい。途中で見かけたかなと思っていたが、ちらっと一瞬だけだったのでそのまま素通りしていたら、あとでそのことを攻められた。本屋でおどかされる前に私が気付いたものだから次のターゲットはもちろん小川君。しかし、彼は熱心に本を物色中なのでちっとも気付かない。しまいには私も外に連れ出されて夕食に誘われるが、さっき食べたばかりだし、そんな買い物を付き合ってくれた小川君をここで見捨てるなんてできないので、ここで先生達と別れる。

このあと、本を買って商店街ぶらっとしておとなしくホテルに帰る。ゆっくりお風呂に入れるのは今日が最後だ。念入りに体を洗う。エアコンの効いた部屋は快適だ。それも今日で最後。ロビーで小川君と一緒にテレビを見る。台風が心配だ。明日、船は出るのだろうか。オリオンビールで乾杯し、紫イモチップをぽりぽりしながら沖縄最初の夜はふけていく・・

◆まだまだこれから先は長いのですが、規定の枚数かいたのでここでおしまい。小学生が書いた夏休み日記のような文に最後までおつき合いくださいましてありがとうございました。ここで誤解のないように申し上げておきますが、小川君には青井ちゃんというれっきとした彼女がいます。あくまで、私と彼はお友達。先生、わざわざホームページに誤解をあおるようなこと書かないでください。

小川君のことだけじゃなくてキャンプのことも書きましょうね
上限に規定はありません追加レポートを再提出のこと


はじめての野外生活でもマイペースで母をつとめる緑ちゃん
岡緑

西表に行く前、わたしは自分のことを自然愛好家だと思っていた。ちょっと大げさかもしれないが、ともかく、都会の雑踏の中で暮らすよりは、自然の中で過ごすほうがよっぽど好きだと思っていた。生まれ育った家はすぐ裏に山があるような所だったし、車の免許を取ってからは、夏でもないのにやたらと海へ出かけた。「冬の海はいいねぇ」なんて言いながら、センチメンタルな気分に浸るのが好きだった。

そんな私だが、野外生活はこれがはじめてだった。念願のはずなのに、西表のキャンプ設営地である網取に着き、鮮やかに広がる大自然を目前にした時、頭が真っ白になってしまった。そこには人間の匂いはまるでなかった。ただ、自然があるのみだった。ここでどうやって生活をするのだろうか。そんな疑問でいっぱいになった。

私は自然の中でまったく無知で無力だった。「薪を取ってきて」と言われても、どんな木がいいのかわからない。釣りをするといっても、えさにするヤドカリを捕まえることができない。パニックの連続だった。

だが、時がたつにつれて、少しずつではあるが、私は自然の生活のリズムに合わせて生活できるようになってきた。朝陽が昇れば目を覚まし、あたりが闇につつまれるころ、床に入る。そんな単純なことがとても大切で、新鮮だった。たくさんの生き物にも出会うことができた。遊び方も知った。

私はそんな生活の中から、いくつかのことを覚えた。

それは、ヤドカリは朝と、夕方から夜にかけて動き出すこと。潮の流れは一定でないこと。山が白くなると、雨が降る確率が高いこと。枯れて乾燥したアダンの葉は、着火材がわりになること。お皿や鍋を海水で洗う。油物がついていても、スポンジや洗剤のかわりに浜の砂でごしごしこすると、よく落ちること。

なにも知らない私にとっては新しいことすべてが新鮮で、強烈だった。流れに逆らわず、うまくつきあえば、自然は生活の助けになってくれるんだなぁと、発見するたびに感心した。

私が今まで愛好してきたものはいったい何だったのだろうか。それは、自然ではなく、単に山や海を眺めることだったのだと今は思う。眺めているだけで満足し、しまいにはそれを知った気になっていただけなのだ。だがそれは、風景画を眺めていたのと大差ない。自然を知るということは、自然の流れに体を合わせ、自然とうまくつきあって生活していく過程で、得られるものなのだ。西表の自然は私にそんなことを教えてくれた。

はじめての野外生活、西表キャンプ。私にとって大きな意味を持つ5日間だった。その間、何度となく仲間に助けられたこと、教えられたことも忘れられない。もし仲間がいなかったら、毒を持った貝をそうとは知らずに食べていたかもしれない。スコールに襲われたとき、怖くて眠ることができなかったかもしれない。なにより、仲間がいなかったら、こんなにたのしい自然とのつきあい方を知ることができなかっただろう。とても感謝しています。ありがとう。

いつかまた、西表の自然を訪ねたい。今度はどんな出会いが訪れるのか。今から待ち遠しい

自然の中で自然に生きる幸せ。ありがとう仲間。なんだかとても優等生的な結論で、少し恥ずかしくもあるが、その通りだからそれでいい。いつまでも仲間となかよくね。


酒をのむと薀蓄をたれる やや貧血系
山本君

今回、西表キャンプに参加させてもらえることになったのだが、私の7月26日から8月19日までの約一ヶ月間の旅の本当の目的は、沖縄の酒、泡盛の酒造所を訪ね歩くことにあった。

沖縄には全部で48の酒造所があり、今回巡った宮古先島にはその約3分の一の17社がある。結果的にはその半分の9社しか見学させてもらえなかったのだが、ただ工場に入って写真を撮り、同じ質問を繰り返すことが目的ではなかった(思っていたよりも厳しかったのは事実だが・・・。)

泡盛のおもしろさはたくさんあるが、その中でも原料となるタイ米と麹・酵母菌が、どの酒造所でも一括して配られたほぼ同じものを使っているのに、それぞれ独特の味を持っていると言う点に私は興味を持っている。その違いの理由として使われている水の違いを挙げる人が多かったが、島の中には何社かが同じ水源を使っている所もあり、それでも歴然とした味の違いがあるのは、やはり造りの行程の微妙な違いが関係していると思われる。その微妙な点を調べるには、どうしても造りに参加させてもらうしかなかった。

そのため、自分で飲んでみておいしいと思えるお酒を造っている所で、自分も働かせてもらえないかとアプローチすることが目標となっていた。これは初めから難しいだろうと考えていた夢・希望にすぎなかった。ところがこれを快諾してくれた酒造所が日本列島の最西端、与那国島にあった。『舞富名〔まいふな〕』と言う銘柄を出している、『入波平酒造』である。

与那国島には3つの酒造所があり、ここでは日本で唯一60度を超えるお酒の製造が許可されている。花酒と呼ばれるその酒は、泡盛の蒸留行程の初期に出てくるアルコール度の高いもののことで、間違いなく泡盛なのだが、国税庁によって泡盛と区別されている。西表キャンプ終了の翌日に船で与那国島に渡ったのだが、台風の影響で予定が大幅に短縮されてしまったため、事前に沖縄本島の酒屋で試飲したときに一番おいしいと思った舞富名を作っているここを訪ねることにした。

ここで着くなり米を運ぶようにいわれた私は,とまどいながらも手伝っていると、次は配達についてくるよう言われ、その帰りには社長の自宅の窓をはめ直すのも手伝うことになっていた。初めはろくに見学もできなかったのだが、次の日には朝から蒸留を見においでと言ってもらい、70度近い原酒を試飲させて頂き、さらに社長の紹介で飛行機のチケットまで買うことができ、その日の午後には石垣島に帰ることになった。結果的には24時間もいなかったことになるのだが、その間に社長から泡盛のことだけでなく、与那国島の民俗のことや、内地の酒造業界とのつながりのこと、社長が北九州の大学に通っていたことなど多くのことを話してもらい、旅館の人や社長の知り合いなど30人以上の人と話すことができた。何より来年の春から働かせてもえなえないかときりだしたところ、二つ返事で承諾してもらえたのである。

その時間の短さと、あまりにうまく事が運びすぎたせいで、北九州に帰ってからもしばらくは現実感を失っていたのだが、後日お礼のお手紙と電話で確認させてもらえた。今から来年の春が楽しみでならない。

あれれ、西表の話は????酒の話になると燃えるねぇ。


流れ星を見ながら歌をうたう 若いって素敵
まさやん

8月2日から6日までの西表島でのキャンプについて私は自分がしたことを中心に書いていこうと思う。それでは西表へ出発するところから。

8月2日この日は9時発ぐらいだった。当初より出発時刻が早まったため、配達を頼んでいた水などが受け取れなかったがとにかく無事に出港。この日はけっこう波が荒れていて船がかなり揺れた。私は船酔いのことを考えておらず薬も飲まなかったので船から降りたらボロボロになっていた。白浜まで送迎バスで。マングローブが見えたりした。そして白浜から網取湾まで船で。潮が満ちていたので海にジャブジャブ入りながら浜へ上陸した。

まず最初はテントの設営。4つのテントは、男3、男4、女3、女3に分かれるはずだった。だけど変更。阿津坂さんの悲劇が起こることとなる・・・。そして私はトイレ作りを手伝いはじめた。なたでばしばし枝を切ってトイレへの道を作る。切り込み隊長は島田さん。島田さんは実はとてもたくましい人で、かつ「楽しむ」ことがわかってる人。というか一緒にいて楽しかった人。作ったトイレへの道は、潮が満ちた夜などに役立っていたと思う。

この日は海岸で貝堀りをしたりした。黄緑が少しかった小さい貝。たくさんいた。掘るポイントは、浅く広く掘ること。砂はきが充分でなかったらしくかむとジャリジャリした。食事の後はウトゥーリだった。西表初日だったので自己紹介にちょうど良かった。星はとてもきれいだった。本当にたくさんみえるので星座を知ってると楽しみが大きいように思う。天の川も見えた。その日はみんな酔いすぎることもなくテントに戻った。呼ばれてテントに入ると私を含めて4人。みんな「あっさかさんはあのテントにいるのか」について話していた。ここにいないということはあの二人と同じテント・・・?そんなかんじでこの日は眠る。

8/3朝、あけ始めた空を見て、私は釣りを始めた。そしたら2匹釣れた。初めてちゃんと釣りしましたが、それは手ごたえのある体験でした。釣ってそれをすぐにシメて海水で洗ってすぐに食卓に並ぶということ。釣ったものを逃がすんじゃなく、食べるために釣る。それは直接的でわかりやすいことで、それが本当だ、と思った。シメた後海水で洗って台所に持っていく時まだ魚は手の中でピクピクしている。自分が殺して、それが確かに生きていたと知ってるからこそ、おいしく食べてやろう(残さず)と思う。

そしてかまどのところにいたら、驚いた。竹川先生、門屋君、島田さんが3人で銛ですごく大きいグロテスクな生き物を突き刺したまま登場した。ウツボであった。このウツボは夕食に使われることになった。私は夕食を作るグループだった。メニューは、ウツボのからあげシークヮーサー添え(エビもあるよ)、ウツボの甘辛煮、ウツボの燻製、ウツボのスープ、という感じだった。私はからあげの係だった。片栗粉はなかったので、川端さんが持ってこられていたココナッツミルクの粉末(ちょっと甘め)と塩こしょうをして揚げた。油の温度が上がるとカラッとあがった。貝がらや葉っぱに盛りつけて花とかを添えたらなんだか幸せな感じになった。ウツボは本当においしい。一匹で4品×13人分はすごい。からあげはなんだか鳥肉のようで、シークヮーサーを絞ってかけると更においしかった。

この日の夜はしばらくすると激しい雨が降ってきたのでみんなテントへ。私は竹川先生達のテントに避難していたがなかなかやまないのでそのままそこで寝た。

あっさかさんの悲劇
前日一人でテントにいたあっさかさん。するとあの二人がテントに来てガクゼンとする。そしてこの夜、歯磨きをするといってテントをでて女の子テントに行こうとしたら、どしゃ降り。テントはきっちりしまっており入りにくい。あっさかさんは本当に泣きたかったらしい。(そりゃあそうだろう) 結局泣く泣く元のテントに帰ったそうである・・・。

8/4この日はみんなで東海大のある方に潜って行くことになった。私はカヌーをこいだ。途中で早合点して島田さんを探しに行ったので往復半してしまい、カヌー酔い。みんなで行動する時はこういう自己判断は危ないなと思った。浜では持っていったおにぎりを食べた。とても海がきれいだった。帰りは私は先にカヌーで川端さんと二人で戻った。私を下ろして川端さんはみんなの所へ戻って行った。

私達の浜に家族連れが遊びに来ていた。探りをいれてみようと笑顔で近寄っていった。「どこからこられたんですか?」てな感じで。その家族は大阪の人達で祖納から船できたらしい。お父さんが大学の時西表に来たことがあって、子供をつれてもう一度きたかったのだそうだ。すると一隻の船がバリバリとやってくる。そしてクーラーボックス入りの氷とパインをくれた。家族連れへの差し入れかとおもいきや良く見ると行きがけの船のおじさんだった。「6日、7:30に迎えに来るよ!」と去っていった。みんなの喜ぶ顔が楽しみだった。で、家族連れは、捕った貝をくれて迎えに来たダイビング船で帰っていった。手を振って見送った。こういう束の間の出会いも楽しいものですね。

その後大谷さんと岡さんが二人でカヌーで帰ってきた。早速クーラーボックスでビールを冷やすこととなった。(さすがだ)だいぶ経ってからみんなはたくさんの魚や貝を携えて帰ってきた。この日の魚捕り大賞(?)は門屋君だった。この日の私にとっての大きな出来事は、大岩で貝を叩きつぶしたことです。セメントでヤドカリをつぶすのにはもう慣れてましたが大岩を投げつける所までいってなかったんですね。正直言って生き物を殺すのはまだほんのちょっと怖いのですが、食べるんだったら自分で殺せなきゃ、と思うようになりました。

・・・夜ごはんはシーフードカレー他だった。食事の後は酒盛り。みんなが歌を歌うことに。私もたくさん歌ってしまいました。思い出すと恥ずかしい・・・。先生が中島みゆきを好きというのにはびっくりした。先生って酔うとああいう人なんですね。(知らなかった・・・)とにかく楽しく夜は更けていったのであった。

この日の門屋君の一言
「自然とアバンチュールしろってね」

8/5朝、カヌーで島田さんと二人で[西表のターザン]が住んでた所を訪ねた。で、そこにいた美術の先生&校長先生とお話した。ターザンのことや、ここに来たきっかけなどなど。よくしゃべる方だった。一升瓶がたくさん積み上げられていた。ターザンが生きていた頃からそれはあって今でも増え続けているようだ。ターザンに憧れた。

浜に帰ったら私はこの旅初めて海で泳ぐことにした。浅瀬で泳いだりしてたら、先生が「一緒に行くぞ」というのでついていった。深い所は浅い所とは色が全く違い、怖いけれどとても美しかった。真珠貝がいた。おちょくる魚がいたりした。銛を使って突くのってすごいなー、かっこいいなーと思いながら見てた。来年(?)には私も潜って獲物を取れるようになりたいなと思う。

戻る時先生が教えてくれた方を見ると、水中に光が満ちていてとてもきれいだった。泳げて良かった最後だけでも、本当に。夕食はすごいごちそうだった。海鮮スパゲティー、たきこみご飯等々、サラダもいっぱい。山本さんがやけにポテトサラダにこだわっていた。食べ切れないほどだった。

食事の後は、花火をしたりした。先生があげたのはとても大きくてきれいだった。何かが海で光ったと誰かが言ったので見に行くと夜光虫だった。波打ち際にいくつも光る青い点が見える。光っては消え、またついて。不思議な妖艶さがあって、きれいだった。この日も泡盛を飲んだりしゃべったり、歌ったりした。いつのまにか眠っていて、夜中まで海岸に寝転がっていたのでした。

8/6朝、7:30ちょっとすぎに船が迎えに来た。海岸に余った泡盛を埋めて今度の楽しみにした。このキャンプは、のびのびとできて、自分の五感を最大に使えるのでとても気持ち良かった。これから、もっと五感も魚捕りの仕方もフルに使えるようになって、ターザンみたいになれるといいなと思っています。

また西表にいきたいと思います。

五感。それが本当は、生きるためにあるのだということを、
海の生活はおしえてくれます。
バーチャルリアルなんてくそ食らえ。
女ターザンをめざせ!まさやん。


あらゆる男を骨抜きにする九州娘
ミキちゃん
少しはたくましくなれただろうか しんちゃんは
シンちゃん

沖縄に行って本当によかったと思う。たしかにクーラーもTVもない。もちろん電灯もない。文明からかけはなれた場所であるけれど、そこで生活してみてすごく心が穏やかになった気がする。人間が人間らしく生きていくことってこういうことなんだと思った。食べたかったら食べればいい、眠たくなったら海へでるのはやめにして昼寝。すごく自由だと感じた。夜の空はこんなにもたくさんの星があったんだなあと感動するほど星々でうめつくされて、レジャーシ−トをひいてみんなのごろごろお酒をのんで、うたって、潮が満ちてきたらテントに帰る。何でも自然まかせで心地いい。

南の島だから、夏なのにWの形のカシオペア座もみえたし、流れ星もたくさんふってきた。自然ってこんなにいいものなんだなってつくづく思った。私は、昔からどうしても海がこわくて、海水浴にいっても、足がつくとこまでしかいけなかったけど、沖縄の海では、むこうの岸まで泳いでいけるようになった。“海はすごくキレイだ、まだ少しこわいけど”って思うようになった。それは畏怖っていうかんじで、海とともに生活していく人のキモチをちょと分かったかもしれないなと思った。

でも、あんなにたくさん泳いだのに、太って帰ったのは未だに不思議。ちょっとくやしい。だけどダイビング釣りもよかったし、みんなでとうくまで泳いだのも、ウツボをたべたのも、砂でお皿を洗ったのも、せんたくものが海の匂いがしたのも、少しじゃりじゃりするごちそうも、チョロチョロしか流れていない滝の水も、先生がしてくれたこわいカッパのはなしも、夜光虫みたのも、みんな私の中に吸収されて、自分が一まわり大きくなった気がしてる。思い返すとあの時間の流れが体をゆらゆら通っていくような心地よさに満たされて、励まされる。

そういえば、おじさんのさしいれのパイナップルが1ばんおいしかった。すっごく甘くて。すっごく幸せになれた。小っさなことでこんなに幸せの波にひたひたのみこまれていくっていうのはスゴイと思う。1週間、なかなかハードだった けど、でも、すごく幸せだった気がする。また来年もさそって下さい。


とんでもないメンバーに戸惑いつつも的確な分析をかかさない
カドヤ兵隊

AVENTURE
『ラジオ深夜便』というラジオ番組をつけた。いつものDJの眠くなるような声じゃなく、波の音が聞こえてきた。今日の『深夜便』は、石垣島からの中継だった。穏やかな、優しい波音と三琴にのせて海人が唄う島歌が、僕を再び南の島へと連れていってくれた。

ランタンを消す。今日もウトウーリがはじまった。そして今日も先生が言う。「ウトウーリは心なんだ。心をまわすんだ。」

僕たちは月と星の光に包まれながら泡盛をまわし続ける。泡盛が僕の体しみ込んでいくほどに、幸せになる。そしてみんなも幸せになる。みんなの気持ちが泡盛に溶け込んでいるのだろうか。それぞれの体にみんなの気持ちがしみ込んだとき、皆たまらず唄いだした。僕らの唄を河童は聞いていただろうか。西表に来てほんとに良かった。

僕にとって海は未知だった。小さい頃から泳ぎがだめだった僕にとって、海は恐いものでしかなかった。知ろうとする前に足がそっちへいかない。ここに来る前まではそうだった。

シュノーケルの咥えかたがわからない。水抜きできずにそのまま海水を飲んでしまう。こんな僕をいきなり先生は、足の届かないところへ連れていってしまった。地獄を見たあと、僕は海を見たくてしょうがなくなった。こんなに海がたのしいところとは・・・。コバルトブルーの海、さまざまな形の珊瑚礁、色とりどりの魚達、そして何よりもなにかぞくぞくするような海の深さ。

次の日の朝、すっかり海のとりことなった僕は、先生と早朝ダイビングにいった。潜り始めてまもなく、先生が海中で僕を手招きする。めいいっぱい息を吸い込み、先生が指さす先の珊瑚の穴を覗き込む。僕は怪物を見た!鋭い歯を持った馬鹿でかい口で僕を威嚇する。怪物は穴からなかなか出てこない。何度ヤスを刺しても、力任せに体をくねらせ抜いてしまう。さすがの怪物もあまりの攻撃に耐えられなかったのだろう、その姿を僕たちの前へあらわした。「でかい!」ヒョウのような斑点がある長い体をくねらせながら泳ぐウツボの姿は今でも目に焼きついている。


ウツボを捕ってからというもの、頭の中は魚を捕ることでいっぱいになった。魚がすべて食い物に見えてきた。そのくせ、しとめた後はその魚がすごくいとしく思えて話し掛けたくなった。あらためて食うことってすごくうれしいことなんだって思った。 僕の好きな写真家の星野道夫が書いた、『アラスカ風のような物語』にこんな一節がある。

「生きる者と死す者、有機物と無機物。その境とは一体どこにあるのだろう。目の前のスープをすすれば、極北の森に生きたムースの体は、ゆっくりとしみ込んでゆく。その時、僕はムースになる。そして、ムースは人になる。」

この一節がもっと好きになった。

「アバンチュール」この言葉が僕の耳にこびりついている。何気なく笑っていたこの言葉がなぜか今すごく大切になった。AVENTURE−冒険(的な恋愛)。

この言葉は僕に何を教えてくれただろう。ひと夏の恋は大切だ・・・。というわけでは決してない。そう、いつまでも自然に対してこの気持ちを忘れてはいけないということだ。つまり一途にAVENTUREを求めていくことなんだ。

新しい単語を覚えられてよかったですね
「アバンチュール」英語のアドベンチャーと同じ語源をもつこの言葉が、カドヤくんの人生をどう変えるのか。たのしみです。


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