ハッピーライフの終焉

[KOK 0046]

21 Apr 1997


米国の極東戦略ために自国民を犠牲にする国辱的な決定にたいして、少数民族主義者のわたしはなにをいえばいいのだろうか。

改正駐留軍用地特別措置法という名で、法を曲げてまで米国におもねるのは、戦後民主主義というハッピーライフを守るためなのだろうか。

有事、有事と政府はいうが、これは有事の際にふたたび沖縄が犠牲となることを認めろという意味だろうか。そうでなければ、ありもしない有事のために莫大な負担をおしつけるということか。

ハッピーライフのからくりは「くさいものにはふた」である。かつて地上戦で壊滅的な打撃を受けた小さな島のことなど忘れ、いまなおその島が日本国内にあることすらも気にかけない。「日本国民」としてのプライドをまもるため、従軍慰安婦はなかったことにし、歴史の記述から抹殺するのとおなじ手口である。人間いやなことは思い出したくないもの。

そうそう、こんな考え、このごろよく見みかける。ポジティブシンキングでハッピーライフ。「このごろ性格が明るくなったといわれる」「社交的になり友だちがふえた」自己啓発セミナーも脳内革命も根はおなじである。「ほんとの自分がどこかにある」自分を捜して三千里。悪いのは社会ではなく自分でもなく、本当の自分がまだ発見されていないからである。社会も言語もしょせん脳の中につくられた幻想なのだから、要は心の持ち方しだい。これが幸せな生活を生きるための秘訣だそうな。

社会科学は心理学者がアイデンティティなんていいだしたあたりから、とんでもない泥沼にずぶずぶうまりはじめている。近代的人間は、一人前になるために、がんばって理性をコントロールする。本当の大和魂をとりもどせー。民族主義者も民族のアイデンティティを求めて躍起になる。その結末がハッピーライフである。どこで道を誤ったのか。

アイデンティティもいらない、自我を確立するつもりもない、生まれてきてごめんなさい、堕落するだけの人間失格。このところ、とんとはやらないネクラな性格。でも脳天気なハッピー野郎よりはよっぽどましだと思う。だって、健全な肉体に健全な魂は宿らないのだから。魂は、人間にとってなにものにもかえがたいものだから。

沖縄の件に関しては、わたしはキチガイのように不快です。この国が大嫌いです。「まあまあ」「なあなあ」「そうおっしゃらずに」「ことなかれ、ことなかれ」

最近わたしは丸くなったそうである。子供が産まれて職を得て、以前に比べてやさしくなったそうである。ギスギスしたところがなくなり、つきあいやすくなったそうである。そうかな?そうだとしたら最低だな。親バカハッピー野郎にろくな未来はない。

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Takekawa Daisuke