人間活動と環境(その1)

[KOK 0059]

17 Jun 1997



Photo by Koji UOZUMI 1997


干潟を見た。諫早湾にいく途中に、ガタリンピックで有名になった鹿島町の干潟公園に立ちよった。

そこには生きている干潟があった。干潟の滑らかな灰色の泥は、すくい上げてみると思ったよりも気持ちいい。においもあまりしない。指の隙間からしたたりおちる泥の中から、ゴカイだのカニだの小さな海中生物たちがわさわさと這い出してくる。

環境としての干潟を考えてみた。人類はおどろくほど柔軟性の高い生き物で、地球上のさまざまな場所に適応し、そこに居をかまえている。雨のほとんどふらない砂漠や、雪と氷ばかりのツンドラ、空気の少ない高山、むせ返るような熱帯雨林、そして海の上。しかし、干潟は、とても身近にありながら、人類にとって最も遠い環境なのかもしれない。寡聞にして私は、干潟に生活する民族を知らない。たしかに干潟を利用する人々はいる、しかしそこは決して居住の場所ではない。干潟採集民は陸に住んでいる。

実際に体験した干潟は、見事に「泥沼」のイメージであった。あるいはソコナシ沼。はだしになって少し歩いてみた。足元からずぶずぶと埋もれていく感覚は、どこか気持ちよくもあるが、唐突にえたいのしれない恐怖を呼び起こす。なんだろう、この恐ろしさは。そして、この泥の中に無数の生物が蠢いていることに気がいくと、ここは私がいられる世界ではないという思いにかられる。

干潟には、浄化作用があるという。いっけん不浄のかたまりのような泥の世界が、自然界の浄化の場所であるとは。マンガ「風の谷のナウシカ」の腐海の世界を思い出した。

腐海。人を拒絶し威嚇し毒を撒き散らす生態系。腐海と人間の生活は決して相容れないもののようにみえる。人々は浅はかな知恵をもって腐海を焼き払おうと試みるが、その反動で更に腐海はますます深くなる。しかし、そんな腐海の中に生活する人間もいたのだ。「蟲使い」と呼ばれ蔑まれる民。かれらは交易と狩猟採集によって、残された土地に住む農耕民たちと交流をしている。そして完全に腐海の奥地に住み聖なる民として畏れられる狩猟採集民「森の人」。しかし、物語の中で、この穢れの民と聖なる民とは、互いに婚姻関係にあり、世界の光と陰の両方をになっていることが、やがてあきらかにされる。


Photo by Koji UOZUMI 1997

人間は、毒の生態系である腐海ともうまくやれる知恵を持っていると、この物語はしずかに主張する。

感傷的なことをいっても仕方がないが、実際に諫早湾で見たのは、人の手によって殺された干潟の姿であった。干潟は、ただひたすら平らで、もはや、よわよわしい力すら持っていなかった。人間の勝利である。私は、死にかけのムツゴロウをつかまえて食べようと思っていたのだが、湾の奥ではそんなものはとっくに死に絶えていた。貝もゴカイもカニもすべて泥の中で化石になるのを待っている。ここはすでに人を拒絶する世界ではない。

この広い「新しい土地」でなにをしようか?あたりの顰蹙を買いながら、われわれはフリスビーをした。どこまでも平らなこの土地は、まさにフリスビーをするのにうってつけである。

正直なことをいって、いくら環境のことを唱えても、その無力感はぬぐいされない。諫早湾におきた事件は、環境問題というよりは単なる政治の問題にすぎない。利権がらみで前時代的な、日本の「自由と民主」の政治である。フリスビーでもしなければ、このだだっ広いばかばかしさはやりきれない。

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Takekawa Daisuke