やさしさと同調性4

[KOK 0084]
13 May 1998

この話題に関してはのべ18人のかたからお返事をいただきました。予想以上の反響です。編集者としてあまり能がないですが、まずはその一部にコメントをつけながら順に紹介します。


●千葉のケロちゃん(やさしさと同調性1について)

ありますあります、そういう経験。嘘で対応されたり、いくら話しをしてみても暖簾に腕押しだったり。それに関して思うことをちょっと書きます。

彼または彼女は、最初に「あ、やば!」と思った時、それを解消するための第一歩が踏み出せないのではないかと思います。確かにその一歩は勇気のいることですよね。自分の非を顕にすることでもあるし、相手の気を悪くする可能性も充分あるし。だから「その場をまるく納めるために嘘をつく」その瞬間は、自分をかばっていると同時に、確かに彼らは相手を思いやってもいるのだと思います。物事をまるく納めて、言い換えれば「なあなあ」で済ませられれば、嘘もばれずに済むのでしょう。そして、これはちょっと信じがたいことですが、彼らは常に物事をまるく納めるような人間関係しか持たずにきたのかもしれません。最近そう感じるようになりました。みんな(年寄りも含めて)「いい加減」、、、。だから、それ以上の正面切った深い人間関係に巻き込まれた時、彼らの行為が裏目に出るのではないかなぁ、、、。

ケロちゃんのいうように、やさしい奴ってとても「いい加減」!でも、いい加減な割に、なんだかつらそう。ほんとにいい加減なやつは、あんまりつらくならんもんなぁ。


●大阪のケンちゃん(やさしさと同調性1について)

「中学生日記」風の今回は大変おもしろく拝見しました。「思いやり」「心配り」は私のような営業職には重要なキーワードです。

顧客との対応は常に「自己都合」と「思いやり」の葛藤です。とはいうもののビジネスの場合は理由なき思いやりは疎まれます。「下心ある思いやり」「相手に下心の見える思いやり」が肝要です。わかりやすくていいかもしれません。

●京都のタケちゃん(やさしさと同調性1について)

それは「やさしさ」ではなく甘えではないだろうか。

こういう奴は私の周りにもいる。
若い奴だけでなくおっさんもいる。

私の場合は相手が会社の上司だったりするので、立場上何も言えないことが多い。

その手の嘘を徹底的に追及すると、周りの人間からも疎ましく思われるようだ。事勿れ主義とはこう言うことかも知れないと思う。

ただ限度を超えた嘘は徹底的に追及されて首になるケースもある。

自分を守るためにうそをつく人は一生同じ事を繰り返すだろう。

大介も学校の先生なんだから
その子の将来が心配ならば
からかったりせずに
何か効果的な指導をした方がいいと思う。

本音と建前が交錯するサラリーマン社会じゃあ、本当の自分なんて邪魔なだけなのかもね。「やさしさ」も相手にすぐつたわる、わかりやすさが肝心なんですね。そして、わかりやすいやさしさも「やさしさ」のうちなんですねぇ。


●小倉のヨッさん(やさしさと同調性1について)

先生こんにちは。
「小倉日記」読みました。
いつもは「ふーん」て読んでただけだったんですけど、今回のはちょっと考えてしまったことだったので・・・

なんか「A君」の考えてることも分かる気がするんです。例えば「彼なりに気を使っている」のが分かるとき。この時、確かに彼なりの「やさしさ」が感じられます。でも、なんだか他の人とはちがう「やさしさ」に感じられます。

何が違うのかというと、なんだか言葉を悪くしてしまうと押しつけがましいっていうか・・・「僕はこんなに気を使ってるんだよ。分かって!!」ていうのがひしひしと感じられるというか・・・でもほんとに「気を使って」ほしいとき、「やさしく」してほしいときはそれがないんですよねぇ。

実はこれ、私も言われたことがあるんです。
「妙なところでは気を使うのに、妙なところで図々しい。おまえの気の使い方は白々しい。分かってそうで、全然分かってないんだよ。」って。

このことを言われたとき、私はものすごくびっくりしたんです。自分的には、とても相手のことを考えて行動してたつもりだったから。でもよく考えてみるとそうなんですよねぇ。でもこちらとしてはそれが居心地よかったんです。誰も傷つけてないって思えるというか、そのことによって自分も傷つかずに済むというか。

でもそれは「人を傷つけないようにする」ことで自分を守ってるだけのような気がするんです。なぜならそうすることで相手との「衝突」を避けることが出来ますから。

だから、もし「衝突」が起こってしまった場合は大変です。何も言えなくなってしまいます。なぜなら、そこで自分が「傷つく」のがこわいから。だから「嫌われない」ように「気を使い」ます。時にはよかれと思って嘘もつきます。(A君に言わせれば「社交辞令」だけど。)

でもそれはとてもじゃないけど長続きしません。疲れちゃうんですよね。「今はこう言うべきなんじゃないか?」とか考えることが。そして人に対してものすごく「臆病」になるんです。嫌われたくないから。

この臆病さが「A君」に「普通」ということに関して、すごく敏感にさせているのだと思います。だから彼は彼なりの「普通」が先生達に論破されることをとても嫌います。彼にとって「普通」ではないことはすなわち、「人に受け入れられない」事なのではないでしょうか。だからこそ彼にとっては普通じゃないさやかさんが受け入れられている、嫌われていないことに、ものすごい憤りを感じているのだと思います。

彼は常に「普通」であろうとし続けます。そして彼にとっての「普通」は人に受け入れられるかどうかなのです。だから時に一生懸命考えすぎて、気を使ってるつもりが、全く逆のことをしていることが出てくるのではないでしょうか。だって人に受けれられているかということは、その人に聞いてみないと分からないんですもの。たとえ「A君」が「よし、これで受け入れてもらえる」と考えたとしても所詮は彼の中でそう思っただけのこと、それを受け入れるかどうか、「普通」だと思うかどうかはその相手次第なんですから。

こうして彼は「普通」であり続けようと、人に受け入れられようとする。そしてそうすることで人との衝突を避け、自分を傷つけないようにしてきたんじゃないでしょうか。

でもそこで彼を「八方美人」なんて言ってはいけません。なぜなら彼としては「自分を傷つけない」=「人を傷つけない」事なんですから。彼なりの精一杯の気持ちなんだと思います。その「気持ち」を「うそつき」なんて言うと彼は怒るでしょう。なぜなら「うそをつく」というのは自分の対面を守ってるということでしょう?彼の場合はそうすることで人を「傷つけない」ようにしてるんですから「あなたのためにそういってるのにどうしてうそなんて言うの?」てなるんじゃないでしょうか。

この中で一番若いヨッさんの返事。とっても核心をついている。さすが当事者世代。しかもヨッさんこそ、実はA君の被害者Bさんだったりする。しかしヨッさん、君もA君と同じなのか!ちょっとショック。


●京都のシゲちゃん(やさしさと同調性1について)

ウーン、思いやりって何なんでしょうね。
どっちか言うと若い人の方が、気をつかって話していることの方が多から、それが分からないのは私を含めてやはり、ヤボなのかもしれません。「怒る」ことによって可能になるお互いの人間的理解など、今の世の中で望むべくもないのかもしれません。

人類学者にとって、フィールドで現地の人とケンカしたときの思い出は、格別ですね。わたしも3度ほどやってます、ウルルン。


●宝塚のユウちゃん(やさしさと同調性1について)

近頃の若者は(^_^;)優しい。近頃の男も優しい。ついでに女の子もけっこう優しい。だらだら優しいだけで疲れる。人を傷付けたくないのかな。でも本当は自分が傷つきたくないからだったりするんじゃないかな。あっちも立てて、こっちも立てて、結局すごく失礼なことをして、それに気づかないワカモノが多い、と言うか、そうでないワカモノを探すのってむずかしい。それに気づいて愕然としたのは今からちょっと前、つまんなくて、最近、年下と遊ぶのに飽きてきました。優しいってつまんない。

竹川さんは、効率よく人傷つけるよね。核心突くよね、グサァァァッて(^_^;)。それが竹川さんのすごいところです。「うそつき」なんて、家庭内でしか使わない言葉だったなぁ。

ははは、また私信の部分まで引用してしまった。こういうところがやさしくなくていいでしょ?おこって。


●東京のリュウちゃん(やさしさと同調性1について)

このA君という方のようなキャラクターは、まさにいまの学校教育のなかではぐくまれる典型的な性格なのではないかという気がしてなりません。とにかく衝突をしないこと、自分を守ること、そういったことに集中することで、まさに彼なりに「いじめられない」自分を形成してきたのではないか、と思います。いまの子ども社会のなかには「いかにしていじめられないですむか」ということを汲々と考えている子どもが、けっこう多いのではなかろうか。でないと、たとえばルーズソックスなどのファッションで、判で押したようにみんな同じ格好をすることの説明がいかない。人と違うことがかっこいい、とぼくは思うのだが、どうもそういう価値観は、あまり広く支持されていないのではないか、という気がしてならないのです。

彼がいかに「いじめられないこと」に神経を集中してきたかは、「こんなふうにからかわれたのは、小学校以来ですよ」といったことばに象徴的に現れているように感じます。

学校教育も、来るところまできているのかなあ。そうは思いたくないのだが。

●名古屋のトモちゃん(やさしさと同調性1について)

う〜ん・・・。

A君には気を使ったことになっていないことを、はっきり言い続けていくしかないのでは?

本来、そういうことは最小単位の社会であるところの家庭でしっかりと「教育」されてしかるべきところだと思うのだけれど、不幸にして彼はそのような機会がなかったのではないだろうか?

おそらく、親御さんは「うちの子はいい子だ」と思っているにちがいない。彼も、「いい子」と思われたいだけなのだろう(本人は意識していないかもしれないが)。

ぢつはそ〜いうオイラ自身も、読み進んでいくうちにちょっと「ぎくっ」となったけふの小倉日記であった・・・(^ ^;

教育の問題なのか、家庭の問題なのか。外部にその原因を求めたい気持ちは分かるが、因果関係を探るのはむつかしい。でも、たしかに、なにかが小学生以降の子どもたちにおきている。


●長崎のアキちゃん(やさしさと同調性2について)

A君についての文章から私が感じたのは(大した感想ではありません、心理学用語も上手く使えませんが)、A君は多分いい人だろうけれどもとても自己中心的な人だろうなあということです。相手のことを気遣っているようでいて、結局はその場で自分のことを悪く思われないように振る舞っているように感じたからです。Bさんに悪く思われないように(一方で竹川先生に悪く思われないように返事をして)、C氏に悪く思われないように(一方で竹川先生に悪く思われないように返事をして)、竹川先生に悪く思われないように返事をして、結局よけい困った状態を引き起こしているパターンのように思えました。それプラス先のことに対する予測(今を取り繕っても後が苦しくなる)力はイマイチかなあという感じですか?

ポケモンの新キャラ、ジコチュウか。個人の資質の問題か?


●名古屋のカズちゃん(やさしさと同調性2について)

かつて我々が小学生の頃、「人の身になって考えなさい! 自分がやられたら嫌なことはあの子も嫌でしょぉ。だからやめなさい! ビシッ!バシッ!」と体に教え込まれたことは旧来型の「やさしさ」なのだろうか。

実は私自身、もう何年も人間関係に悩んでいる。
「男のやさしさはパンツのゴムである。」と言った人がいた。何が「パンツのゴム」かというと、「パンツのゴムはなくてはならないものであるが、やたら人に見せるものではない。」ということだそうだ。
「やさしさ」を「パンツのゴム」と定義する人は、ここでいう「クールな人」なのであろうか。よくわからない。

カズちゃんのトラウマはわたしのトラウマでもあります。だから小さい頃の私は「やさしさなんて信じないぞ〜」ってずっと思っていました。いまでも思ってるかも?パンツのゴムもキレてたりして、みせてあげようか?


●奈良のコマワリちゃん(やさしさと同調性2について)

元気に教員をやっておられるようで何よりです。
私も適当に手をぬきながら、なんとかやっています。

手を抜きながら、というのは結構まじめな話で、生徒とのコミュニケーションに苦労している様を受け取ってもらえるとありがたいです(最近コミュニケーションに苦労する教員まで出てきた)。ついでに、なんとかやっています、というのも、なかなか意図が伝わらない(そりゃぁ伝える手を抜いているのだから当たり前だ)のでイライラすることも多い、というところです。ついこの間まで目つきや声色だけで伝わったことが、生徒に伝わらず、それでいて言葉にしてもうざったいようにしか受けとられない、不満はたまるが口にすることさえない教員は実は多いようです(こんなことは酒でものまなきゃしゃべってくれないので「ようです」なんて言い方になりますが)。

A君の話を読んで思い出したことがあります。うちの学校では最近、いわゆる「いい子」がおかしくなってきています。いい子たちがみんな教室でポツンとするようになってきたのです。この手のタイプは昔からいましたが、回りをまきこむことのできる「いい子」がいたのも確かです。今のいい子は周囲との関係を断つことで「いい子らしさ」を保っているようにさえ感じます。A君が「いい子」かどうかと関係なく、この手の高校生が思い出されました。

逆に、「問題の生徒」となる連中にも教師や他の生徒との距離がうまくとれない一群がいます。彼らには当然信頼している人はいない、まじめでもない、だからといって攻撃したい個人もいません。昔みたいに教師とか学校とかにむけて怒りを表明してくれたら話のしようもあるのですが。そんな連中がすることといえば、使わない教室に忍び込んでスピーカーを壊す(どうせなら使ってる教室の方が示威効果が高かろう)とか、トイレットペーパーを水につけて使えなくする(何のためのアピール?)とか、屋上でウンコする(のぐそがしたかったのか?)とかいったものがあります。これらの行動にはおそらく理由もなく(ムシャクシャしてやった類)、犯人の特定もできないことが多いのですが、これらの行動にはいずれも「特定の個人に迷惑をかけていない」という共通点が浮かび上がってくるよう気がします。

昔でいう「ワル」の連中はみんな小粒になってしまいました。最近はケンカをして指導される生徒はほとんどいません。一方的な暴力はあるのですが、あとはタバコぐらいが関の山です。タバコが見つかると、タバコなんてみんな吸ってるし誰にも迷惑かけていないとみんな言います。こりゃぁケンカなんて面倒くさいわな、とひとりうがった見方をしています。

最近学校がおかしい、なんてよく言われますが、何も事件が起こっていなくても学校がとてつもなく変なところになってきたのは間違いない、と実感する毎日です。

コマワリ先生の、こわーいこわーい学校の怪談。コミュニケーションに苦労する教員なら大学にもたくさんいるぞ。なんでもかんでも最後は「・・・そういうことは、まあ、いかがなものかと・・・」なん言ってんだよ!日本語はなせ日本語!いかが、だからどうなんだよ。うがが!


●京都のミッちゃん(やさしさと同調性2について)

おそらく私も、竹川さんの言う「やさしい」人々に入るんだろうな、と思います。

> 他人を傷つけたくないし、自分も傷つきたくない
> 本当の自分は出さない
> 人と衝突しないことを求めるあまり、外面をたてまえでよそおう
> そのときどきの社交辞令に磨きをかけ
> それが形式的なものであるということを「自覚」している
> 自我は、甘えんぼうでわがままな、きわめて未熟な存在にすぎない

というのは、程度の問題はあれいずれも私にあてはまります(最後のやつなんか特に強烈ですね)。しかし、どんな人でも多かれ少なかれそういう側面を持っているはずだと思っています。だからといって肯定しようとしているわけではありません。念のため。

そういう「やさしい」このごろの若い人たちの一人として(というかA君と竹川さんの間くらい?)若干疑問を感じました。

【疑問1】 「やさしさ」を二つに分けることは妥当なのか?

> 旧来型の「やさしさ」では、いわば相手の気持ちに配慮しわがことのように
> 考える一体感が大事にされている。
> 新しいやさしさは、「相手の気持ちに立ち入らず、傷つけないようにあたた
> かくみまもる」

上の二つの分け方はあまり適当とは思えません。いかにも後者では「相手の気持ちを配慮しわがことのように考え」ないかのように書かれていますが、おそらく後者でも「相手の気持ちを配慮〜」することはなされています。

おそらく後者では「わがことのように考え」た結果、自分だったら「立ち入ってほしくない」と考え、「立ち入らない」のでしょう。問題は「相手の気持ちを配慮〜」したつもりでも必ずしも成功するとは限らないこと(相手の気持ちを分かったつもりで実は分かっていないかもしれない)ですが、これは前者でもありうることです(相手のことを分かって一体感をもっているつもりなのが、一人よがりであることもありうる)。

つまり、「自分と置き換えて相手のことを考える」いう意味ではどちらの「やさしさ」も同じではないでしょうか?違うのは「考えた結果」であり、それに基づいてなされる「その後の相手への関わり方」だと思います。

【疑問2】 両者は分かり合えないのか?

もし、竹川さんの分析が正しく、二つの「やさしさ」があるとすると、旧来型の「やさしさ」をもった人々と新しい「やさしさ」をもつ人々との間には「傷つき傷つける」関係は成立しないことになります(なぜなら新しい人々は旧来の「やさしさ」を拒絶するから)。

ということは、人類学が「傷つき傷つける」学問である以上、人類学ではこういう新しい「やさしさ」をもつ人たちのことは分かりえないということになります。

人類学がこれまで異文化を持つ人々のことを理解できたのはその全ての人たちが旧来型の「やさしさ」を持つという共通の“文化”を持っていたからで、結局本当に異質な“文化”を持つ相手(それが実はかなり身近にいた)に対してはどうしようもない、ということになるのでしょうか?

なんとなく、こういう「分かり合おうとしないやつら」のことは分からなくていい(というかそもそも理解不可能)、というような切り捨て方がなされる危険性があるような気もします。

ミッちゃんの質問に対しては「やさしさと同調性3」ですこし答えました。どちらも同じ「相手の気持ちに配慮するという行為」であるはずの「やさしさ」が、解釈のちがいで180度、意味が変わっちゃうですよね。そこが人間関係の難しいところです。


●京都のレンヤさん(やさしさと同調性3について)

前から、何かコメントを書こうと思ってました。あまり説得的には、言えそうにはないと思うのですが。離れた世代について考えるとき(とくに下の世代)、どうしてもどこかバイアスがかかってしまうものかもしれません。大平健の文章は、面白いけど、サービスをしすぎるんじゃないかと感じさせるところがある(とくに、「貧困の精神病理」とかを読んでしばらくして、ペルーに自分も行ってみてそう思った)。

ただ、若い人に対して、感じる違和感は自分にもあります(ただし、これは自分とその周辺世代も含めての若い世代、という意味)。自分に実感のある言葉で言えば、若い人が、異世代に対する「コミュニケーションの技術あるいは型」を失ってしまった、ということではないかと、感じます。その原因が、核家族化にあるのかどうかは、わかりませんが。私などは、正高言うところの典型的な傍観者・傍観者の家庭です。いわれてみると、自分のまわりにじいさんとかが日常的にいることはなかったし、異世代と意思疎通をはかっていくような装置は、なかったかもしれませんね。異世代と交渉する術も知らず、かといって同世代でもホッブズ的自然状態におかれているのでしょうか、(われわれ)若い世代は?

下の世代について語るときのバイアス、わたしも感じます。最初にも書きましたが、昔から「近ごろの若者は」なんていう大人にだけはなりたくないと願ってきました。そんなふうになったらもうおしまい、オヤジ街道まっしぐら。しかし、たぶんこの「やさしさ」は、若者世代だけの問題ではないような気がする。

うまくまとめきれなくてごめんなさい。「やさしさ」、その善悪を論じるまえに、自分はどう振る舞っているのか、考えてみてください。まあ、大介はけっこうやさしいやつだけどな、なんてね、うそばっかし。

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Takekawa Daisuke