イギリスの犬と管理教育

[KOK 0158]

30 Apr 2001


[kok158]市場競争と個人主義の続きで、全く別の側面から、もう一つの「自由」について書こう。

イギリスの犬と日本の犬は同種の動物と思えないほど行動が違う。イギリスの犬は自分から子供に近づかない。すれ違った犬どうしでじゃれ合うこともほとんどない。不用意にほえることもなく、いつも泰然としている。

イギリスの犬は、飼い主といっしょにしばしばロープなしで散歩をしている。広場などではのびのびと走り回っている。そう、イギリスの犬はいかにも「自由」なのである。

知り合いのイギリス人に言わせると、それは小さいうちに人間社会でどう振る舞うべきか、きちんと教育をしているからだという。

正しい振る舞い方を教えられているからこそ、自由になれる。いっけん矛盾していそうな説明である。しかし、これは犬の問題だけではなくイギリス人の「子供のしつけ」観にもつながり、さらには彼らの「文明人」や「近代人」観にもつながる。

おそらく彼らに言わせれば日本の犬は野性的(wild)な犬である。同様に基本的な(近代西欧式の)作法が身に付いていない人間もまた野蛮(wild)な人間である。彼らはワイルドであるが故に、鎖につながれ、不自由な生活を強いられる。たしかにかわいそうだが、それはしかたのないことである。

イギリスの犬には調教をする専門の学校まで用意されているらしい。調教は飼い主の義務でもあるし、ペットショップもきちんとしつけをした犬しか扱わないという。残念ながらぼくは、犬がどのように調教されるをよく知らないし、どうしても調教がうまくいかない犬がどうなるのかも知らない。

犬にかまれた人が飼い主に裁判をおこした際の話を聞いた。その裁判では「この犬はきちんと調教されており、おそらく人間の方がいたずらをしたに違いない」という判断が下されたという。よく社会化された犬は、中途半端な人間よりも信用される。

ここでぼくは日本のいわゆる管理教育を思い出す。今から20年ほど前に愛知県や千葉県ではじまったこの教育方法は、学生たちの話を聞くかぎりいまや全国に広がって、日本の教育のごく当たり前な風景になっているようだ。われわれの頃はまだ教員の中にも前管理教育世代がいて批判的な見方もできたが、いまや教える側も管理教育世代、この教育方法に対する違和感はますます薄れていくばかりだ。

管理教育とは、時間前集合、連帯責任などの集団主義、制服制帽の着用、体育教育における行進やマスゲームの利用、上下関係の強化、クラブ活動の全員参加、0時限に始まり8時限におわる過剰な補習、人間関係や生活の細事にわたる校則など、さまざまな心理的かつ身体的抑制を多用して「効果的な」教育をすすめるやり方である。

この教育方法が登場した当初、多くの人々が管理教育には「自由がない」と批判していた。しかし、意外なことに、当の高校生たちからこの批判に対する反論がでた。いわく「管理教育の高校は、外から見ているほど不自由ではない、むしろ自由ですらある。たしかにはじめはとまどうが、高校のやり方になじみ、きちんと決まりを守ってさえいればこれほど楽な生活はない。それに、なにをしてもよいというのは、受験を控えた高校生にとっては大きな負担であり、むしろきちんと与えられた規則の中でこそ自由を楽しむことができる」

ちなみに「基本的生活習慣の確立」というのが、こうした「抑制」に対する「教育学的な」説明である。基本的生活習慣が確立されていない者は自由が制限され、基本的生活習慣を確立した者たちだけで「自由な」学校をつくろうという発想、なんとなくイギリスの犬の話に似ていないだろうか?

自由という言葉には、何かの束縛からのがれるというニュアンスがある。しかし束縛から逃れる方法として、管理が強化されるという皮肉がここにある。

英語で、AIDS free といえば、エイズが自由に跋扈している状態ではなくて、エイズの人が無料という意味でもなくて、エイズから自由、つまりエイズにかからなくて安全という意味である。「○○からの自由」というのは、いわば一種の社会的ストレスからの解放である。そしてストレス解放とストレス管理は表裏一体である。ちょうど、AIDS free を実現するために、厳しい管理と抑制を必要とするように。

さて、二回にわたって自由を考えてみた。どちらの「自由」も決して手放しで歓迎すべきものではないように感じる。しかし、われわれは間違いなくこうした「自由」を考えなければならない時代に生きている。かつて「自由」は、圧政や搾取からの解放を意味した。その時代には明白な戦うべき対象が存在し、自由は輝かしきプロパガンダとして存在した。しかしひとたび解放の海に放り出されたわれわれは、とまどいながら自分の中の敵と戦わなければならない(「不況からの自由を!」というのをプロパガンダにするのはとても難しいよね)。


ホーミーで雁を呼ぶ

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蛇足ではあるが、「自由」という言葉の語感にはさらにもう一つ別のニュアンスがあるかもしれない。たとえば日本語の「自由」は、涅槃のような万能で絶対的な状態や、無為自然のようなすべてを受け入れる空虚で相対的な状態と関連が強いように感じる。もしかするとこうした仏教や道教の自由観が、近代的な意味での「自由」の理解の妨げになっているのかもしれないが、話が混乱しそうなのであえてあまりふれなかった。

なお蛇足ついでに、さしものイギリスにもさすがに猫の学校はないようだ(どこか暗示的な事実ではある)。善悪の彼岸に住む無何有(むかう)の士は、公正と競争を求める自由主義者(liberalist)とも、道徳と博愛を尊ぶ市民的自由人(freeman)ともどっかちょっと違うんだろうね。

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Takekawa Daisuke