記憶装置としての貨幣

[KOK 0203]

08 May 2002


先日、豊津の瓢鰻亭でおこなわれた地域通貨の勉強会にゼミ生たちと参加した。

始めに、予習不足のわれわれのために、手軽にできる簡単な地域通貨のシミュレーションをしていただいた。

まず、参加者全員に二枚ずつボードを配る。そしてそれに「いま自分が誰かに助けて欲しいこと」を書く。

つづいて一人ずつ順番にそのボードを見せながら、どうしてその助けが必要なのか、具体的にどんな作業になるのかなど、できるだけほかの参加者の気をひくようにプレゼンテーションをおこなう。

説明を聞いてその作業に興味を持った人は、さらに不明な点や条件などを尋ねる。こうした交渉を通して、その作業に対する通貨の対価が決められる。もし両者が合意にいたれば、握手をかわし依頼者からボードが渡される。

こんな感じでプレゼンテーションを二周おこない、各自二回ずつ自分がして欲しいことと地域通貨を交換する契約をかわすのである。(もちろん、だれとも契約が成立しないケースもある)

ここで大切なルールはただ一つ、約束を互いにきちんと守るということである。地域通貨だからといって、かわされた契約をないがしろにする人がでてくると、システム自体が成り立たなくなってしまう。

おもしろいのは、ある人にとって大変な仕事が、他の人にはかえって興味深いことがあるという点である(たとえば平飼い卵の殻拭きの手伝いとかね)。

地域通貨を円滑に流通させるためには、同質的な参加者よりも、できるだけ多彩な顔ぶれの方がよいのだという。仕事を依頼する人は参加しているメンバーをみながら頼む仕事を考え、受ける方もまた自分の特技を生かした仕事を選ぶことができる。

おそらくほかにもいろいろなやり方があるだろうが、このシミュレーションを通してわれわれ初心者にも地域通貨の原理がすんなりと理解できた(みなさんも、ぜひ試してみてください)。

地域通貨という概念自体、最近生まれたばかりのものであり、それに対する印象や期待は人によってさまざまだろうと思う。しかし、今回の勉強会を経て感じたことは、地域通貨の交換はわれわれが日常的におこなっている経済行為とはかなり異なるものであるという点である。そして「通貨」という言葉にあまりとらわれると地域通貨の本質が見えにくくなってしまうように感じた。

そもそも地域通貨のシステムとは、貨幣そのものの蓄積や交換が目的ではなく、むしろ通貨はコミュニケーションを促すための「きっかけ」であるという点を押さえておく必要がある。

近代貨幣によって動かされている社会では、貨幣はしばしば交換の「手段」であることを逸脱し、それを集めること自体が「目的」となる。しかし、これはある意味でフェティッシュな倒錯ともいえる。

こうした目的と手段の転倒が地域通貨にはない。地域通貨を他人よりたくさん集めることにはほとんど意味がない。地域通貨はあくまでも「手段」である。そしてこのシステムにおいて、手段としての貨幣が媒介するものは「交換される物や仕事」だけではなく、契約を成立させるまでの「コミュニケーションそのもの」なのだ。さらに極論すれば、地域通貨において対価の額すら、ひとつの目安にすぎない。

私は以前から地域通貨に興味があった、というより貨幣そのものについて関心があった。「貨幣とはなにか」それはソロモン諸島でいわゆる原始貨幣として使われるイルカ歯を調べ始めたときから、ずっと気がかりな問題であった。

すでにいろいろなところで書いた話だが、ソロモンのように平等分配をおこなう社会において、貨幣や財の蓄積はむしろ罪悪である。集められた資産はしばしば散財され再分配される。結果的に怠け者も勤勉な者も得られる財の量はあまりかわりない。しかし、それを指して「怠け者が得をする」と考えるのはわれわれの価値観であり、彼らはそうは思っていない。

そもそも人間が一人生きていくために必要な財にそれほど大きな個人差があるわけがないのだから、たとえ多少得をするとしても「怠け者」なんて言われるのはかっこわるいというのが彼らの価値観である。どうせ同じ一生を過ごすのであれば、皆から尊敬されるような人間でいたい。まあ、それがごく自然な感情としてある。

しかし、こうした「平等」社会にも貨幣がある。いや、むしろ、われわれの社会以上に複雑な貨幣体系が発達している。それはいったいなぜなのだろうか。

「いつどこで誰がどんな仕事を手伝ったのか、あるいはなにをもらったか」というような貸借関係についてソロモンの村人たちは実によく記憶している。もしここで近代貨幣が介在していれば、こうした貸借関係はその場で即座に精算されてしまうが、村人たちはあえてそういうことをせず、貸借の事実を頭の中に記録しておく。

精算しない結果、相手との関係が持続するのである(たとえば、われわれの社会で交換されるおみやげやプレゼントをイメージしてほしい)。つまりこうした場合の貸借関係とは、継続的な人間関係そのものである。そして、同様の継続的貸借関係が地域や世代を越えて行われるときに、その交換のあかしとして貨幣が用いられるのだ。

原始貨幣にはしばしば物語が付随する。たとえば、どの時代にだれから譲り受けたものであるか、その時の状況はどうだったか、なにと交換されたのか・・など。こうした物語が歴史的に意義のあるものであればあるほど、それだけ貨幣そのものの評価も高くなる。

彼らにとっては、負債の発生にともなって形成されるコミュニケーションや人間関係が大切なのであって、貨幣はその記憶を助け、物語を伝えるための装置にすぎない。

同じ様に、饗宴の場で食べきれないほどの豚をふるまうのは、人々の記憶に散財を印象づけるためであるし、わたしがたまたま撮影した演説のビデオテープが再生装置もない村において記憶を子孫に伝える特殊な財として扱われた理由も説明できる。

地域通貨と原始貨幣にはさまざまな共通点がある。両者を、匿名性が意味をもつ近代貨幣とは対照的に、「コミュニケーション」や「物語」が付随する貨幣であるとは考えられないだろうか。あるいは、交換装置ではなくて記憶装置としての貨幣であるという見方はどうだろうか。

このあたりから、なにか交換機能や蓄財機能から離れたユニークな貨幣論が展開できそうな気がするのである。

そして、うちのゼミでも実験的に地域通貨を導入したいと考えているのである。

New▲ ▼Old


[CopyRight]
Takekawa Daisuke