[KOK 0245] こくら日記のトップページにとぶ 01 Jul 2004

このシマとクニのこれから

 

国際サンゴ礁シンポジウムの発表で6日間ほど沖縄にいた。ひさしぶりの那覇では新しくできた「ゆいレール」が迎えてくれた。ゆいレールとは沖縄都市モノレールの愛称、沖縄で盛んな頼母子講のユイマールに掛けたのだろうか、いかにも沖縄らしいネーミングである。ちなみに沖縄方言のニヘデービル(ありがとう)をもじったニヘデビールという地ビールもまた同じセンスのたまものであろう。

ゆいレールは那覇の街並みを縫うように蛇行しながら走っていく。まるで遊園地のアトラクションのようだ。那覇には何度も来たことがあるが、ゆいレールの窓外にはこれまで気づかなかった鳥瞰図が展開していた(特におすすめは運転席の真後ろの前向きシートだ)。

沖縄の街

どこまでも続く白いコンクリートの建てのビルの隙間に、ところどころ瓦葺きの平屋の集落が埋もれている。街は珊瑚石灰岩がぼこぼこと盛り上がる低い丘と隙間を流れる川によって形成されている。下を歩くと迷路のような坂や小道が入り組んでいる那覇であるが、上から眺めると首里城から北に広がる丘陵地が原初の地形を残したまま人の営みを受け入れてきたことが手に取るようにわかる。むき出しの岩山や川沿いの窪地といった場所は、近代的なビルの進出を拒み、古い町並みが存在を主張している。そして海と陸が交わる川端は、人と物が集まる市となる。

沖縄の街

牧志の公設市場や樋川の農連市場(この農連市場はまもなく立て替えが行われるという。私個人としては世界に誇れる今のこの市場を失うことはきわめてイカンである)は有名であるが、ゆいレールの安里駅から見おろす栄町市場もそんなおどろきの市場のひとつだった。那覇の中心部からさほど離れていない場所にありながら、私はこれまで栄町市場の存在を知らなかった。ゆいレールがひかれまわりの再開発が進んではじめて気づくとは、なんとも皮肉なことである。北九州のモノレールの旦過駅から見下ろす旦過市場のように、栄町市場一帯もまた独特な景観を醸し出していた。

沖縄の街

沖縄では市場をマチグァとよぶ。私は市場をこよなく愛す。愛すばかりでなく万事コンビニ化が進む現代社会の最後の砦だと考えている。コンビニ界の画一的な冷えた交換が唯一の人間関係であると思っている世代が多数を支配する前に、私は市場に陣を取りまもなくそこから大逆襲を開始するつもりだ。コンビニ人間が自我崩壊し、最後のコンビニが地球上から消えるまで、その戦いは長い長い戦いになるだろう。

感情のない機械のような「いらっしゃいませどうぞ」は、客よりも先に店員の自意識を破壊する。いつでもどこでも同じ物が同じ値段で買えることがほんとに幸せか?些細なおにぎりの具の違いを誇らしげに言い当てることに何か実りがあるのか?いつまでも腐らない惣菜を疑ったことはないのか?断言しよう、コンビニ人間は人生も恋もそして死ぬ時もコンビニだ。

沖縄の街

市場には今そこにある物しかない。すばやく店をまわりながら品を定め、巧妙な交渉によって必要な情報を引き出す。同じように見えるカニでも中身はちがう、パイナップルの甘さがちがう、そのちがいを店の「おばあ」は知っている。知っているけど簡単には教えてくれない。とりあえず天気の話でもして、向こうから話す気になってもらうしかない。

たとえ聞き出せてもすぐに飛びついてはいけない。むしろ買う気のなさそうな素っ気ないそぶりが必要だ。そうしないと「おばあ」は値段をいう前に品物を包み始める。負けである。市場では値段が決まるまでが勝負だ。むこうだって客が情報だけもらって逃げないように「さあ、それでどうするね」と身構えるはずだ。

沖縄の街

勝負は一瞬にして決まる。ぎりぎりの値段は一度しか言えない。ここで品質と相場を無視した安値をいっても軽く笑われて恥をかくだけだ。「これより高ければよそを見に行くよ」というスタンスでさりげなく、でもきっぱりと値段を主張する。その結果、おもわぬ勝負の展開に「ならば、あれもつけてこれもつけて」と苦し紛れのオプションで直前の負けを取り戻すしかあるまい。

ゆいレールから栄町市場を発見した私はすぐさま車両を降りた。栄町市場は地元の人々に愛されている小さくて雑多な市場であった。元気は良いが観光客にもあらされておらず、市場のあり方としては非常に理想的な部類である。一目見るなり私はここを気に入った。そしてなんと栄町市場の周辺では、モノだけでなくヒトまでも売られていたのである。

沖縄の街

シンポジウムの帰り宿の戻る途中で、夕食でも食べようと夜の栄町市場を通り抜けようとしたとき、昼間でも薄暗い路地の真ん中あたりに怪しげなピンク色のライトとその下に座っている女性が二人。その横を足早にすぎるとなにやら声を掛けてくる。通り過ぎてから目をやると昼間にその辺で魚を売っていた「おばあ」?!

池上永一の短編集「あたしのマブイ見ませんでしたか」には、昼間は町会議員で夜には花街の女王となる「おばあ」伝説が語られていたが、それは誇張されたフィクションというよりは沖縄の街においては誰もが理解できるリアリティなのだ。威張ることではないかもしれぬが、しかし、これが市場の実力なのである。まいったか。コンビニ人間はバイクのメットをかぶったままエッチな雑誌でも買っていればいいのである。

沖縄の街

さて、怪しげな話になってきたので市場のことはこのくらいにして、食べ物の次は服の話だ。ひさしぶりの那覇で、私は平日の昼間にサラリーマンをまったく見かけないのに驚いた。たとえば役場の近くのソバ屋に入っても、お客はは遊び人風(ごめん!)のおじさんたちばかり。しかし実は、サラリーマンがいなかったのではなくて、正しくはこのおじさんたちがサラリーマンだったのだ。

沖縄ではいつの間にかネズミ色の無個性な背広姿が駆除されていたのだ。すばらしいことである。確かに以前から郵便局のように接客をする場所ではアロハシャツみたいな開襟シャツが着られていたが、それがいつの間にか公務員はもとより事務や営業など一般企業のより広い業種に普及したらしい。沖縄の伝統柄から鮮やかでポップなデザインまで、色とりどりの個性的なこのシャツは「かりゆしウエア」と呼ばれているらしい。もう一度書くが、これは大変すばらしい第一歩である。

そもそも衣食住と風土や伝統は切り離すことはできない。涼しい気候のヨーロッパで生まれたネクタイと背広が、蒸し暑いモンスーンアジアである日本の仕事着として強制されていることじたい冷静に考えればとっても不自然なことなのだ。たとえば西洋と長く闘ってきた中東やインドの人々は、自らの文化を自ら否定するようなそんな屈辱的な精神的侵略を受け入れない。ニュースを見てもわかるように、こんな国で背広を来ているのは欧米に屈服した傀儡政権の政治家だけだ。

沖縄の街

明治以降、日本は欧米の価値観に無意識に支配され続けている、残念ながら自らの奴隷性を自覚できない奴隷にはすでに夏目漱石の苦悩すら解るはずもあるまい。しかしまあ、私もTシャツとジーンズを着ながらこんなところでひとり怒っていても仕方がない。まずは沖縄から発信された民族自立への第一歩をたたえようではないか。西洋近代からの突破口が、苦悩する純血主義ではなくナンクルナイのチャンプル主義であるというのもまこと痛快である。

沖縄の街

ファッションに疎い私は恥ずかしながら知らなかったのであるが、今や太平洋一帯はおろか世界中に普及しているアロハシャツも、もともとはハワイの日系移民が「きもの」を仕立て直してつくったものが始まりのようだ。ならば、沖縄のかりゆしウエアとアロハシャツは兄弟みたいなものだ。

「かりゆしウエア」は、沖縄で縫製されたもの服にだけつけることができる呼称であるという。需要の拡大にともないゴーヤ柄やスクガラス柄など斬新なデザインが発表されるなか、やはり風格があり落ち着きを感じさせるのは、芭蕉布や紅型など沖縄の伝統的な布を使ったものである。かりゆしウエアは、こうした織物や染物の作り手たちにも新しい作品の発表の場を与えている。こうして伝統的な布の評価が高まれば、開襟シャツだけではなく「きもの」の復権も間近であろう。

変わっていくシマの風景を見ながらこのクニのこれからを考える。タコライスやポークタマゴやゴーヤバーガーで育った世代が火をつけた新しい沖縄ブームは、静かに過ぎ去ろうとしているのを感じる。そして復帰後の繁栄を支えた銀バスもダイナハもなくなり、戦争の記憶を持つ者たちも急速に減っていく今、80年代とはまた違った大地に根を張るようなムーブメントが始まるのだ。

沖縄の街

桜坂の映画館で目取真俊の小説をもとにした「風音」を観た。沖縄での一足はやいロードショーだ。小動物たちの熱演に比べ人間ドラマに希薄さを感じたがよい映画であった。目取真俊は私がいま最も好きな小説家のひとりである。彼の短篇集に流れる沖縄の基層は、第二次世界大戦をの時代を超えて100年前の島の暮らしを浮かび上がらせる。生きとし生けるものの魂たちが重く暑い空気の中でザワザワと蠢いている島世界である。

沖縄の街

実際の戦争を語る体験者が少なくなってしまうことは時の流れの中で避けることができない。それが実際にどれほど悲惨な出来事であったとしても、戦争を知らない世代が語り継ぐことができるのはリアリティではなく物語であろう。しかし目取真俊の物語は、戦争という特殊な状況を題材に、人の営みの普遍性をみごとに描き出しており、どれも深く心に突き刺さる。彼の小説は昔話であると同時に今の私たちの物語なのである。

沖縄の街

「カジムヌガタイ」の比嘉慂も「ぼくのキャノン」の池上永一もそうした新しい物語を紡ぐ沖縄の若手たちである。80年代に芽を出した小さな種が、深く根を下ろす様子を私はそこに感じる。それは、バブル崩壊以降もしおれた葉にかたくなにしがみつこうとする本土の若者たちの雰囲気とは、おなじクニに住んでいるとは思えないほど対照的である。歴史と物語を忘却した者たちは、ボクとボクのココロの外に大きな世界があることに気づかないのだろう。

沖縄の街

さて最後に沖縄の海について書き、この長い文章を終わることにする。国際サンゴ礁シンポジウムでは沖縄のサンゴ礁に対するさまざまな危機が報告され、翌日には毎日のように地元の新聞やテレビで取り上げられていた。公開シンポジウムに出席する人々の海に関する関心も高かった。開発と温暖化でこの美しい海はどうなってしまうのだろう。このシマのこれからをどう考えればいいのだろう。

沖縄の街

石垣島出身の音楽グループ、ビギンは歌う。

僕が生まれたこの島の海を
僕はどれくらい知ってるんだろう
汚れてくサンゴも 減って行く魚も
どうしたらいいのかわからない

でも誰より 誰よりも知っている
砂にまみれて 波にゆられて
少しづつ変わってゆくこの海を

沖縄の街

今に島中の道路を埋め尽くしてしまうのではないかと思うほどに増え続ける自動車。海水の高温化による白化現象で崩れ落ちるサンゴ。占領を終えた後も30年以上続く戦闘機の爆音。目に見えない力が世界をかき混ぜる。どうしたらいいのかわからない不幸がまるで台風のように何度も何度もシマをおそう。でも、それを乗り越えていくためにはあだ花を捨て、地中深く根を下ろすしかない。その先にしか未来はない。

すべてのスーツをかりゆしウエアに!すべてのコンビニをおばあの駄菓子屋に!


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