[KOK 0281] こくら日記のトップページにとぶ 22 Aug 2007

血の歴史−物語の力

 

okinawa

先の大戦の死者たちが今の日本の繁栄の礎となったのだという物語は、やりきれない不条理とその悲しみを癒したい人々や、またもういちど戦の世の中を作ってひと儲けしたい人々にとって、なんとも都合の良い「美しい国」の伝説だろう。

いじめも差別も戦後の教育のせいにして、あたかも昔の教育がすばらしかったかのようにいう人たちも、その実態については口をつぐむ。もっとひどいことがたとえば修身の名で当たり前のようにおこなわれていた。いじめとか差別がなかったのではなく、ただそう呼ばなかっただけのことだ。弱者や少数者による異議申し立てはおろか、その存在すら抹殺される。「美しい時代」は醜さを隠すことによってのみ伝説となる。

戦争の問題を論じる上で何とも不公平なのは、死者が発言できないことである。戦況が悲惨なものであればあるほど生き残ったものは少数で、彼らはいち早く年老いていく。記憶は薄れ、改竄され、マンネリ化と美化の両方からじわりじわりとすり減らされていく。

okinawa

石垣島の本屋で比嘉慂の新刊「美童物語」を買った。4年前にでた「カジムヌガタイ」をさらに超える問いかけが描かれており、しばしば考え込まされる小作品だった。世代から世代へと伝えられるもの、生き残るということはどういういう意味か、死ぬということはどういう意味か、私はそこに小さき者たちの抵抗が世界を変えていく可能性を感じるのだ。

okinawa

こうの史代の「夕凪の街桜の国」も 映画化された。原作の淡々とした日常がそのまま再現され、生きることのリアリティがかえって鮮やかに感じられる、そんな珠玉の映像だった。原爆という不条理と暴力を受けながらも、それでも「生き残ってしまった」人々の過去から現代へとつながる物語である。

こっそりとひとりで映画館にいって、端の方で人目をはばからず泣きながら見たらよいとおもう。館内ではいろいろな世代の人が見に来ていたのが印象的だった。年老いた人、中年の人、若い人、子どもたち。映画が終わった後、それぞれが背負っている歴史は違いについて考えた。いつの時代でも、違う歴史を持つ人々が同じ時を生きているのだ。それが当たり前なのだ。

okinawa

知らないとか知りたくないとかいう言葉は浅すぎる、いや、もったいないと思う。生の豊かさとは誰かのことをどれだけたくさん知るかにかかっているのだから。

比嘉慂やこうの史代の作品を読むにつけ、私たちの世代が次の物語を紡いでいくことには確かに意味があるのだと感じる。歴史とは血のつながりである。世代から世代に引き継がれる、血の物語である。誰しもがそこに参加する権利があり、死んだ者を想うことが生きる者の勤めなのだと思う。祖先崇拝を, 私の歴史を、国に奪われてはいけない。

幸いなことに「夕凪の街桜の国」は翻訳されている。英語しか読めないお友達には、英訳された本を送ってあげよう。"Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms "


▲ NEW [kok0282]     INDEX     [kok0280] OLD ▼

大介研究室のトップページにとぶ
© TAKEKAWA Daisuke