【狂39】「沈黙の艦隊」論

94/11/2

■私の家のちかくの図書館には「沈黙の艦隊」がそろっております。最近それを借りて、あらためてまとめて読みなおしてみました。いやいや、面白いですね。話のなかの世界情勢と現実の歴史が、どちらが早かったのか忘れてしまいましたが、政界再編成や冷戦終結なんかが、リアリティを生み出してますね。(始めの方ではソ連だった国名が、途中からことわりもなくロシアになってたりもしてますが)

■主人公、海江田の描き方もなかなか、味わい深いものがあります。かれは全編をとおして、必要最小限の発言しかしていません。もっぱら潜水艦を操り戦闘することでなにかを表現するわけです。読者も含めてこの男が一体どういう思想のもとで、動いているのか分からぬうちに事態は進行していきます。

■いわば、この漫画は、海江田という人物の行動に対する人々の多様な解釈によってなりたっているといっていいのだと思います。海江田は自分の行動に対する説明はほとんどせず、アメリカ大統領や日本の首相やマスコミや保険会社なんかが、一生懸命かれの行動の解釈し、それでもってそれぞれの立場の人が、海江田と「やまと」に対処しようとするわけです。

■ストーリーの展開からみれば、それらの解釈の結果は、あたかも海江田の意図にしたがって予定調和的にすすんでいるかのようにも見えるのですが。それは、かなりきわどい綱渡りの結果で、ひとつひとつの局面では海江田はつねに自分の行動に明確な情報をのせているわけではありません。

■戦闘のシーンにおいてもこの構図は散見されます。その典型が「やまと」がしきりに放つ探信音です。「やまと」が放った不可解な探信音を、敵艦隊はしきりに解釈しようとしています。解釈することによって新たな事態がひきおこされます。

■以前に狂電でしていた「情報の本質は解釈」である、という議論をここで思い出して下さい。

■政治性の高そうに見えるこの漫画のイメージとは矛盾するようですが、海江田の意図(思想・イデオロギー)は、ここで描かれている状況にとってもはや重要な問題ではないのです。海江田の意図よりも、それを解釈するがわの決定がむしろ重要なのです。

■もし受け手が海江田の行動に対してとんでもない解釈をして、核ミサイルでもボカンと一発やってしまえば、即座にこの物語は「沈没の艦隊」になってしまうでしょう。しかしそうなってしまっても、海江田は核ミサイルを発射した解釈者に抗議するわけにはいかないのです。なぜなら海江田は明確化されたイデオロギーにもとづいて行動しているわけではないのですから。

■とっぴょうしもない比喩で恐縮ですが、「やまと」と「世界」の関係は生まれたばかりの赤ん坊とその両親の関係ににているかもしれません。赤ん坊は両親にむけてさまざまな情報を出しますが、結局それによって引き起こされる両親の行動は、赤ん坊の意図(もしあれば)ではなくひとえに両親の解釈に依存するのです。両親は赤ん坊のだす情報からなにか意図(意志)を「くみとろう」とはするけれども、両親のその「くみとり(解釈)」をささえる根拠をいくらつきつめても、決して赤ん坊側にはないということです。

■ちょっと難しくなりました。わかりやすくいいますと、両親が泣いてる赤ん坊をみて「悲しんでいる」と思うか「乳をほしがっている」と思うかはわかりませんが、いずれにせよとりあえずなんらかの解釈をし、あやすなり乳をやるなりして、行動しなければなりません。そして、赤ん坊が泣きやめばその解釈はとりあえず正しかったとされ、もし泣きやまなければ間違っていたとされるのですが、実際はその時にはすでに両親の行動は終わってしまっているのです。

   【つづくかもしれない・・・みなさまの解釈次第 (^_^)】


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