# 南の海にはシュクという名のかしこい帝王がおり、北の海にはコツという名の # # 機にさとい帝王がいた。そして、そのまんなかにコントンという名の帝王が住 # # んでいた。シュクとコツはときどきコントンの領地でであい、そんなときはい # # つもコントンが彼らを手厚くもてなしていた。 # # シュクとコツは、ひごろののコントンのもてなしに感謝し、なにかお礼をしよ # # うと考えた。 # # 「人間にはみな七つの穴があって、これでものを見たり、食べたり、息をした # # りする。ところがコントンはこうした穴を持っていない。あれではかわいそう # # だから、穴をあけてやるのはどうだろうか」 # # そうして、二人は一日にひとつずつコントンの体に穴をあけてやった。 # # # # 七日目、コントンは死んでしまった。 #
■最近(もうずいぶんたってしまったが)よんだ本でちょっとおもしろかったのがあるので紹介します。正月のひまな時間にでもお読みくだされ。
『K−パックス』 ジーン・ブルーワー 角川文庫
『シナプスの入り江』 清水義範 講談社文庫
■この2冊の本はたまたま同じ時期に読んでいたのだが、内容はどちらも「人間の心」に関係する小説である。
■わたしのライフワークは「わかるということはどういうことか」というものであるが(こないだ決めた)。ライフワークという以上、このごろは寝てもさめても「それ関係」のことで頭を悩ませながら、けっこう夢うつつの状態なのである。
■そうした近況のわたしにとって、この二つの小説はたいへん刺激的でありました。この問題に対するとっかかりにおいて、「わたし」と「世界」というふたつの言葉はとっても大切なわけですが、この両者の関係がなかなか面白くかかれている小説だったというわけです。
■「わたし」の中に「世界」があるのか、「世界」の中に「わたし」がいるのか、『ソフィーの世界(NHK出版)』じゃないけど、これってなかなか哲学的な問題でしょ。しかも、そんな不安定な「わたし」が、なぜ、どうやって、「世界」をわかってしまうのか、それがわたしのライフワークというわけです。
■『K−パックス』はそういう名前の星から来たプロートという名の男と、精神科医の対話によって進行していく物語です。精神科医は「その人がほんとにK-PAX星からやってきたのか」というところから疑って「治療」を進めていきますが、読んでいる人にとっては「そうやって「治療」している精神科医ってなに?」「これを読んでるわたしってなに?」、てなかんじであります。そして物語の最後に、K-PAX からやってきた男は星に帰ることになり・・・(この先は秘密にしておきましょう)。うーん・・・、次いきます。
■『シナプスの入り江』は、自分の過去の記憶に疑問を持ちはじめたサラリーマンが主人公です。だからといって『トータルリコール』のようなエキサイティングな展開になるわけでもなく、だれでもけっこう感じてるような日常的なレベルで、話は進行していきます。この本を読みながら、わたしもちょっと自分の過去をふりかえってみたりしましたが。予想以上に「あいまいなわたし」に直面してちょっと困ってしまいましたね。うーん・・・、次いきます。
■このごろわたし家にいる1歳7ヶ月の女児が、ずいぶん「ものがわかる」ようになってきまして、それがとても不思議なわけです。たとえば、高いテーブルの上のものをとろうとするとき台をおいてその上に乗ったりするのですが、これは明らかにものごとを「論理的」に思考しています(わたしが彼女の前でそのようにすることはほとんどありません)。いっぽうで、たとえば鍵をもたせるとむやみに手ごろな穴に突っ込んでまわそうとしますが、これは鍵の機能を知っているというよりは、完全に「さるまね」です。
■わたしは彼女が世界をどう見ているのか知りたくて、ひがないちにち彼女の視線でものを見たりして、経験を共有しながら心を読もうと試みているのですが、なかなか成功しません。そうこうするうちに、彼女はどんどん「世界を獲得(わかるということは獲得することなのか、喪失することなのかという大問題がありますが、ここでは保留)」していくわけで、けっこうやっかいな研究対象です。
■最後は、例によって「おやばか」で締めくくってしまいました。来年もよろしく。