共同作業と貢献

村では共同作業が多い。誰かの家の屋根をなおしたり、お祝いのための食料を集めたり、死者のための墓地を造ったりと、しばしば村中が駆り出され半日程度の仕事に参加する。

しかし、よく見ると必ずしもすべての人が働いているわけではない。半分くらいの人はなにもしていない。一生懸命働いている人の傍らでおしゃべりをしたり、煙草を吸ったりしている。たしかに、常に全員でしなければいけないほど多くの仕事はないのかもしれない。しかし、働いている人の隣で、あからさまにくつろぐことはないのにと思う。

漁には集団漁と個人漁がある。追い込み網やイルカ漁など、たくさんの獲物を一度に捕獲する集団漁には、多い時で30人近くの人が参加する。この集団漁の分配は、働きのいかんにかかわらず、参加したもの全員で均等におこなわれる。漁の成功に誰がどれだがどれだけ貢献したかという話はしばしばされる。しかし、分配はあくまでも均等だ。

おおくの日本人にこの話をすると、「ソロモンは怠け者が得をする社会なのか」といわれる。たしかにそうなのかもしれない。しかし、こうした理解はいかにも表面的に思える、事はそう単純ではなく、実際にはもう少し奥があるようだ。

何か仕事しているとかならず誰かがやってきて、横に座ってジーっとそれを見ている。彼は何をしているのだろう。

四手網をしている男の周りに数人の男が集まってくる。ときどきちょっとした手伝いをすることもあるが、基本的にはただ見ているだけである。1時間ほどして、ようやく男が魚の群れを捕まえると、取り巻きたちはその一部を分け前としてもらう。

彼らは自分ではなにもしないで、人に物を乞うて生きているのだろうか?それもどうも違うように思える。彼らはもっと堂々としており、当然のように分け前をもらう。

ぼく自身、漁法を調べるために漁をしている人についてまわると、人々は必ず取れたものを分けてくれる。漁を邪魔した上に獲物をもらうなんて申し訳ないと固辞しても、これはおまえのとり分だといって魚を置いていく。

こんなこともあった。町に住む村の出身者が、村のサッカーチームのために、白いTシャツを買ってシルクスクリーンでチーム名を印刷していた。ぼくは、その作業がおもしろくてずっとそれを見ていた。別段手伝うこともなかったので、ただ見ていただけである。

数日後、出来上がったTシャツを村に持っていったときに、Tシャツを印刷した男は村人にこう言った。「このTシャツは自分と竹川が二人で作ったのだ」。ぼくは、なにもしていない。ただ見ていただけだ。しかし、正直にそんな告白をするのも変なので、感謝する村の人を前に、ぼくはただ恐縮していた。

ソロモンの人たちにとって「仕事」は大きく二つに分けられる。単純に言えばそれは「お金が介在する仕事」と「お金が介在しない仕事」である。いわゆる賃金労働である前者は、英語のWORKから派生したピジン語でワカと呼ばれている。ワカは基本的に街にいかないと見つけられない。村の生活でワカをしているのは、学校の先生と小さな雑貨店の経営者だけである。

村ではほとんどの仕事は賃金と関係のない、いわば生活するための仕事である。現代のわれわれの社会でも、たとえば主婦がおこなう家事や、子供が学校でする勉強など、多分に仕事的要素を持ちながら賃金労働として位置付けられていない作業がある。ソロモンではこうした作業が、生活の様々な領域に広がっていると考えるとわかりやすい。

さらに極論すれば、われわれにとって歯を磨くことや食事をとることが賃金労働でないのと同じようなレベルで、ソロモンの人々にとって魚獲りや畑仕事は、仕事というより生活そのもので、厳密にワカと区別されているのである。

そして、ある作業が賃金で換算されるかどうかは、単にその作業の報酬が現金でおこなわれるという点だけが特別なのではない。いったんある作業が賃金労働に位置づけられると、仕事の内容や意味、それにたずさわる人の関係性までかわってしまう。

村では、家を作るのが上手な人、釣りが得意な人、カヌーを作る人など、作業の専門化や分業化がおきているが、かれらはわれわれが通常考える意味では特殊化されていない。むろん共同作業はその作業に長けている人を中心に進められるが、その周りにはおおくの熟練していない人々が群がり、ちょっとした手間仕事を手伝ったり、ただ見物していたりする。彼らは仕事の依頼主から出された食べ物を一緒に食べる。

こうした共同作業は無駄が多い。共同作業にはしばしば必要以上の人々が駆り出され漫然とすすめられる。しかしここで言う「無駄」とは何だろうか。あるいはわれわれが「怠け者が得をする」といった時の、「得」とはなにをさすのだろう。

賃金労働の世界ではふつう人数と時間を掛けあわせた数字が効率として評価され、この数字がお金に換算される。すなわち、できるだけ少人数で、手早く仕事をおこなうことが要求されるのである。

しかし、村の共同作業では、賃金が介在しないために、こうした効率はしばしば度外視される。少人数で手早く終わらせようが、多人数で漫然と進めようが、作業が終わりさえすればいのだ。こうした効率よりも、むしろ人々がそこに参加していることの方が重要なのである。

こういう風に考えてはどうだろうか。村の生活において、何かの仕事をしているという状態は具体的にその作業にたずさわることだけではなく、その場に居合わせることまで含まれているのだと。なにも作業をせず、ただ見ているだけの人は何をしているのかというと、時間を貢献しているのである。彼らに与えられる報酬は、時間を共有したことに対するものである。

人が労働時間にしばられているのは、正確には時間が換算されたお金にしばられているのである。村の労働時間は現金に換算されることはない。だから人々の時間は空気のような無償の資源として漂っている。そして、だれかと共にいることによって初めて時間は意味を持つのだ。こうして時間は蓄えられることなく浪費される。

誰かのために時間を浪費すれば、それは彼の仕事を手伝ったことと等価なのだ。そしてわれわれの常識とは正反対に、誰のためにも時間を浪費しない人間、時間を倹約し蓄える人間は、むしろ歓迎されないのである。

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