なにをどう「わかり」たいのか

インタビューは人類学においてもっとも基本的で有力な情報収集のひとつである。しかしそれは必ずしも用意されたいくつかの質問事項を次々に相手に浴びせ、相手から回答もらうというやり方ではない。むしろこうした方法がとられるインタビューはまれである。

上記のようなインタービューはまるでアンケートのようである。アンケートはあらかじめ用意したいくつかの同じ質問を複数の人間に渡し、その回答を元に傾向を分析する手法である。

こうした調査の方法はデータ−の「比較」や「客観性」を高めるために必要であると説明される場合が多いが、その「客観的」に得られたはずのデータ−が、「正しい」かどうかあるいは「本質的問題」であるかどうかは実は必ずしも調査結果と関係がない。つまりアンケートを使えば、どんなに無意味な質問であっても、それに対して必ず答えは用意されており、何らかのデータ−はとれるというわけだ。

この弊害を避けるため、アンケートによる調査においては別の予備調査がかかせないはずである。しかし、現地に入る前からあらかじめ質問事項が決まっているような調査研究もよく見かける。卒論指導をしていると「アンケートさえ取ればデータ−は集まるから、それで論文は書けます」なんて言う学生が時々いるが、本末転倒である。

ぼくはあまりアンケートを用いない。アンケートというのは、「わかるための方法」ではなくて「確かめるの方法」であると思っている。わかる前に確かめることなどできるはずがない。まずは「わかる」ことが大切だ。アンケートは別の調査方法から見えてきた傾向を「証拠立てる」ためにあるにすぎない。

参与観察という方法がある。たぶん人類学の教科書の最初のページに出てくる言葉である。これを調査方法と呼んでいいのかどうかは議論が分かれるところであるが、ぼくにとってフィールドで得られた知識の多くが最初この形をとる。参与観察とは、対象と同じ行動をとり、対象の行動を見つづけることによって、相手を理解しようとする非常にまどろっこしいやり方である。調査者はまるで子供が社会を学ぶときのように、自らの身体をつかって対象と自己の価値観をすり合わせていく。

この場合、参与と観察とどちらに比重があるかというと、いうまでもなく参与である。したがって、こうして得られたデータ−は調査者によってばらつきが生じる。しかし、「わかる」という世界にもっとも接近しようとすればそれも仕方のないことである。というより、ばらつきがあって当然なのである。

さて、われわれはこうした参与観察の中でしばしばインタビューを試みる。多くの場合このインタビューは、特別にセッティングされるわけではない。むしろささいな日常会話の中で、雑談に埋没した言葉の断片をつぎはぎして、知識を収集することになる。それは酒の席かもしれないし、海の上で魚が獲れずに漂っている時かもしれないし、一日の疲れを癒す夕暮れ時の浜辺かもしれない。

どうしても知りたいことがあるときにはこちらから話をふることもあるが、むしろインタビューにおいては、予見や誘導は禁物であると心しておいたほうがよい。時間のかかるやり方であるが、相手が語るに任せて延々と話を聞きつづけると、そのなかで思いもしなかった重要な情報がポロリと発せられたりする。参与観察と日常生活に境界がないように、インタビューと雑談の境界もない。

話の9割はおよそ必要になるとは思えない内容だったりするが、大切なのは言葉による情報だけではない、話者の表情、参加者の反応、そして自分がその会話の場にいること自体もインタビューの大事な要素である。村のいろいろな場所で繰り広げられる噂話に積極的に参加して、あらゆる方向にアンテナを張っておくこと。正直なところ人類学者は噂好きで耳年増で助平なのである。

今回、テレビ局の取材に関して、通訳も兼ねて何人かの村人にインタビューをしてほしいと頼まれた。段取りとしては、テレビ局の人があらかじめ用意した質問にたいし、相手が答えているところを撮影するということであった。

『漁のリーダーとしてやっていく自信はありますか?』

「がんばります」

『イルカ漁にとってなにが一番大事ですか?』

「みんなの協力です」

『イルカ漁をしてきた人生をどう思いますか?』

「幸せです」

用意された質問とそれに対する答えを通訳しながら、頭がくらくらしてきた。たしかに、これらの答えは嘘ではないかもしれない、しかし・・・、まるっきり不毛である。どこかで、こんな無意味な会話をどこかで見たことがある。そうだ、野球や相撲の試合後のインタビューだ。なるほどテレビ局の人間がイメージするインタビューというのは、こういうものであったか。

『どうでしたか?』

「がんばりました」

『最後に一言おねがいします』

「みなさんのおかげです」

なにかを質問しているようで、なにも聞いてはいない。単なる挨拶と同じである。こんな会話を通して、いったいなにが知りたいのだろう。

『イルカを信仰していますか?』

「いいえ。われわれはキリストの神を信じてます。神がイルカを村に呼びます。イルカはただの魚です。」

『何のためにイルカを取るのですか?』

「お金のためです。肉は売れるし。歯もお金です」

たとえ、ときおり非常に重要な本質に触れている答えが返ってきても、その答えが質問者の意図に反していると、それ以上深く尋ねることはせす、さらりと質問がすりかえられる。

『イルカ漁に反対する人に対して、画面に向かってメッセージを』

「これはわれわれの伝統的な文化であり、イルカの歯は婚資に使われている大切なものです。われわれはむやみに獲っているわけではありません。それに、この漁は非常に労力のいるものなのです」

一介の村の漁師にしてみれば、外国人がなにを考えているかなどは、意識の外である。彼らはただ昔からの生活としてイルカ(=魚)を獲っているだけなのである。外国人を意識するのは、両方の社会を知っている者だけである。何人の漁師に聞いたところで、彼らの答えは、先日の会議の時にぼくやチーフのアウが発言した内容の同じ繰り返しに過ぎない。

『ずばり、あなたにとってイルカ漁とは何ですか』

最後のこの質問は、きちんと訳すことすらできなかった。「イルカ漁とは何」これはどういう意味なのだろう。ずばり、もなにもあったものじゃない。文化のコードが同じ者同士であればこうした乱暴な質問でも答えることができる(むろんその答えも決まりきった社交辞令にすぎないのだが。「生きがいです」とかね。)。しかし、異文化の人間にこの手の質問は絶望的である。

『もしイルカ漁ができなくなったら、どう感じますか』

『イルカ漁はあなたにとってどのくらい大事なものですか?』

ニュアンスが伝わるように、いろいろ質問を変えて尋ねなおすと、ようやく答えがきた。

「とても大事なものです」

完全に誘導している。しかし、よく考えると、この手のインタビューは巷にあふれている。

われわれはこうした会話を通していったい何を知りたいのだろうか。単に、相手が考えていることと自分の考えていることが同じだということを確認したいだけなのだろうか。人類学者が知りたいことと、テレビの視聴者が知りたいことは違うのだろうか。あるいは、これは「わかる」ことと、限られた時間でそれを「伝える」ことのギャップなのだろうか。つまり、これもひとつの翻訳の過程と考えるべきなのだろうか。

別の人のインタビューの時、ディレクターにもうすこし自由な感じでインタビューをさせてもらうようにたのんだ。そして、たとえば「今日の漁について詳しく教えてくれ」そんなふうに会話を切り出した。

こちらが相槌を打ちながら会話に参加すると、相手は身振り手振りを交えて、嬉々として語り始める。もちろん、その内容の大部分はあまりに細部にわたり、イルカ漁のことをよく知っている人にかわからないものかもしれないが、少なくともその語り口から漁に対する情熱や思い入れが伝わってくる。続いて「初めて漁に行った時はどう感じた?」と聞いてみた。遠い目をして話し出す老人。横で聞いていた人も我慢できずに思い出ばなしに参入する。

こんな感じで相手のペースで話題をつなぎ、このときのインタビューは40分以上にもわたった。途中では、ぼくにとっても初めて聞く貴重な話を引き出すこともできた。ぼくは会話のリズムを壊さないために、通訳は最小限にし、できるだけ彼らが語るにまかせた。こういういいかたは少し変だが、人類学的に見ればかなり理想的なインタビューだったと思う。

しかし、インタビューの終わりにディレクターはいった。「最後にひとつだけ質問してもらえませんか?」

『あなたはイルカ漁をしているときどう感じますか?』

この人はいったい何を見ていたのだろうか。数十分のあいだ唾を飛ばしながらイルカ漁の話をする老人の表情だけでは不十分なのだろうか。あるいは、テレビの映像としては、こういう短い言質を確認しておいたほうが使いやすいのだろうか。

「ハッピーさ」

老人はそっけなく答えた。

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