【紙のお金と歯のお金】

北海道立北方民族博物館友の会・機関誌
「アークティック・サークル」
No.17 1995

ソロモンドルと併存するイルカの歯のお金

お金というのはなんとも不思議なものである。「お金のためならなんでもする男が登場して・・・」なんて設定の小説やドラマは、それこそはいてすてるほどあるし、そこまで極端ではないにせよ、わたしも含めてたいていの人が「ないよりあったほうがいいな」と思う程度には、お金が好きだ。しかし、財布の中に大事にしまい込まれているお金も、乱暴にいってしまえば、たかが薄っぺらな紙や金属片である。そんなもののいったいどこに人を惑わす魅力があるのだろうか。

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地図をみてほしい。日本からまっすぐ南にむかうとオーストラリアにたどりつくまえにパプアニューギニアにぶつかる。そのパプアニューギニアの東側に回廊のように列をなしているのが、ソロモン諸島である。赤道のすぐ南、美しい珊瑚礁がひろがる島々だ。

ソロモン諸島では、イルカの歯や貝殻で作った複数のお金がつかわれている。これらのお金は、人類学の用語で原始貨幣と呼ばれているが、それはべつに原始時代のお金という意味ではない。「非常にシンプルで、お金のもっとも基本的な性質をかねそなえている」そんなニュアンスでこの言葉はもちいられている。

実際にこうしたイルカの歯の貨幣はけっして過去の遺物ではなく、ソロモンドルという国家が発行している近代貨幣とともに、ひろく人々のあいだに流通している。われわれにとってはなじみのうすいやりかたであるが、ここではいわば複数本位制とでもいうべき、ことなる複数の価値体系が併存しているのである。

それでは、近代貨幣がもっと普及すれば、いずれこうした原始貨幣は消えてしまうのだろうか?ソロモン諸島は世界経済から「おくれた」地域だからまだこうした習慣が残っているのだろうか?

わたしがこの地で調査をして得た実感をもとにしていえば、答えはノーである。それどころか、ソロモンに流通する複数の原始貨幣は、近代貨幣のありかたを問いなおすための新しい手がかりがふくまれているように思える。おおかたの予想に反して、ソロモンの経済活動が盛んになればなるほど、イルカの歯のような原始貨幣はより根強くもとめられるようになるだろうと、わたしは考えている。

原始貨幣と近代貨幣のちがい

おなじ貨幣といってもソロモンドルとイルカの歯のつかわれ方は少しちがっている。イルカの歯は、ごくまれに一本が五〇セント硬貨の代用としてつかわれることもあるが、ほとんどのばあい千本をひとつの単位にして流通する。そして、ソロモンドルがあらゆる商品の支払いにつかうことができるのに対し、こうしたイルカの歯が商品の代価として請求される場面は限定されている。イルカの歯などの原始貨幣は、ブタ・カヌー・家・土地といった貴重な財産を買うときか、結納金や香典のような特別な贈与にしかつかわれないのである。しかも、ある原始貨幣が流通する範囲は、同じ島や言語集団の中に限られており、さらに、ことなる原始貨幣どうしの交換は原則的に許されていない。

このように、イルカの歯はソロモンドルほど万能ではなく、日常的につかうにはちょっと不便なお金である。にもかかわらず、イルカの歯が請求できるばあいには、人々はソロモンドルでうけとることを嫌う。「できればイルカの歯で払ってほしい」これがブタを売る男のいつわらざる気持ちである。さて、どう解釈すればよいのだろう。イルカの歯のどこがソロモンドルよりも優れているのだろうか。

イルカの歯を信用する人々の言説

日本のある銀行がアメリカでの信用を失墜させてしまったというニュースが最近大きくとりあげられた。いうまでもなく「信用」と「お金」はきってもきれない関係にある。ソロモンにおけるイルカの歯もそうした意味で人々の信用の産物である。村の人々は口々に伝統的な原始貨幣の優れた点を語る。

「ソロモンドルの価値は時代とともに減っていく。村のストアで去年までひとつ一ドル五〇セントだったツナ缶が、今年は二ドルだ。だが、イルカの歯や貝貨の価値はずっとかわらない。昔からブタ一頭で千本のイルカの歯と決まっている」

そういえば少し前まで日本にも土地神話というものがあった。インフレというのは言葉をかえればお金に対する信用の減少だ。

「ただのきたない紙切れのソロモンドルとちがって、イルカの歯や貝のお金はとっても美しいだろ。だから、いつの時代も女たちの高価な装身具にかかせない。どうしたって価値を失うことはないよ。これこそ本当の貨幣だよね」

お金の価値を物そのものの価値とだぶらせるやりかたは、わずか二〇年あまり前の一九七一年八月一五日に米ドルの金本位制が終焉するまでは、われわれの世界でも当然のことのようにおこなわれてきた。しかしこんにち流通している不換紙幣には、その価値を保証する「物」の存在はない。イルカの歯は、装身具の貴重な材料でもある。われわれにひきつけて考えれば、一万円札よりむしろ金や宝石のありかたに似ているのかもしれない。

「結納をお金でもらったらなんかありがたみがうすいし、すぐにつかってなくなっちゃうじゃない。ふだんはいいけど、やっぱりああいうときは、きちんとしたイルカの歯とか貝貨みたいな、本当のお金じゃないとだめよ」

すでに記号的な存在と化してしまった近代貨幣にたいして、イルカの歯はまだその呪具性が信じられ象徴的意味を失わずにいると解釈すればいいのだろうか。「呪具性」「象徴的意味」なんて言葉をつかうとちょっとすごそうな気がするかもしれないが、ようするに結婚式のときにつつむ「ピン札」とおなじである。われわれも、時とばあいによってはお金に印刷されている額面以上のなにかをもとめるのだ。

「いつでも貝貨が必要な人はいる。ドルを持っていなくても村ではなにも困らないが、貝貨がないとたいへんである。息子が結婚できなくなる。これではみんなの笑い者だ。相手は貝貨で請求してくるからね」

自給的な村の生活は、現金をほとんど必要としない。せいぜいタバコや石鹸など最小限の日用品を買うくらいだ。イモがたりなくなれば魚と交換すればよい。しかし、日常の物々交換では手にいれられないものもある。そして、奇しくもここで表明されていることは、流通するからこそ価値をもつという貨幣の本質をついた指摘である。

気前のよさと男の評判

ソロモン諸島の土着の英語「ピジン」では村のチーフや人々の信望あつい成人男性をさしてビッグマンとよぶ。そしてビッグマンにもとめられるもっとも重要な資質は、気前のよさである。物を乞われたら躊躇せずにそれをあたえるのが、成人男性のなすべきふるまいであるという。わたしは、おみやげとしてチーフにあげた一カートンのタバコが、つぎつぎやってくる訪問者の乞われるままに減っていき、その日のうちにすべてなくなってしまったのをみて愕然としたことがある。

人々は富の偏在に敏感だ。特定のひとが、必要以上にお金(とくに原始貨幣)を貯めることはとても卑しい行為とされる。われわれの言葉にも守銭奴という語があるが、ソロモンではもう少し厳しいようだ。いわば貨幣の蓄財機能よりも交換機能が重視されているといえるかもしれない。イルカの歯をたくさん持っていることよりも、いかに重要な取引でそれをつかったかがその男の評判をあげるのである。

同時に、原始貨幣をうまくつかって金儲けをたくらむのは非常に悪いこととされる。理論的には、ソロモンドルとイルカの歯の交換レートの差を利用して、ブタなどを有利に売り買いすれば、おおきな利益をあげることができる。しかし、こうした交換はすぐに衆知されるところとなり、そんな男は今後いっさい相手にされなくなるという。

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近代貨幣にひそむ危険性

さて、最後にわれわれになじみの深い近代貨幣をふりかえってみよう。ここまでみてきた原始貨幣とは逆に、近代貨幣はだれでも自由に商売ができるよう貨幣流通の効率化と市場の匿名性をおしすすめている。たとえば、最近コンピュータネットワーク上においてはじまった電子マネーの試みがそのひとつである。こうした電子貨幣は価値の根拠として国家の保証すら必要としない。流通することじたいが信用を形成する。もしこの試行が成功すれば、貨幣の流通は国境をこえ、ネットワークでつながったあらゆる地域でタイムラグのない決算が可能になるという。

しかし高度に抽象化された記号のやりとりである新しいお金は、いっぽうでギャンブルに似た危険性をはらんでいる。たとえば、どこかに偶然発生した価値のアンバランスにたいし即座に投機することによって、ほんの短い時間に莫大な利益を生みだすことが可能になる。そしてこうした行為は、みずからその不均衡を強化しお金の信用をゆるがしかねないあぶない橋である。貨幣間の交換が完全に自由化され、価値体系が統一されれば、ひとつの貨幣で発生した危機はすぐにほかの貨幣に波及する。そこには交換レートの障壁による調整や、不均衡を回復させる時間的なバッファーはすでにない。

このように考えると、ソロモンのイルカの歯にみられるさまざまな制限や不便さは、決して時代おくれで不合理なものではなく、ある意味で非常に成熟した貨幣社会のひとつのありかたを思わせる。貨幣の価値を安定的に維持し、複数の価値体系を併存させるために、ソロモンの人々は効率と多目的性を犠牲にしているとはいえないだろうか。



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