狩猟採集学実習をはじめるにあたって、まずはアタックという概念を明確にしておかなくてはならないだろう。アタックとは、もっともシンプルな説明によれば「自然界に生息しているものを、摂食を目的として、捕獲または採集すること」をさす。

具体例をあげる。たとえば、まるまると太った畑の芋を、焼き芋にするために採集することを「イモアタック」とよび、川に生息するコイを、コイコクにするために捕獲することを「コイアタック」と呼ぶ。

アタックの概念は哲学史の中では物心二元論批判から生まれたとされる。デカルト以降の哲学者たちは、あらゆる生物を時計のような複雑な機械たとえた。これは思惟における主体のみが世界のありかたを決めるという、きわめて人間中心的な立場である。

それにたいしアタックは、身体と精神を分離せず、生命そのものの主体的所有権を想定している。すなわち「あらゆる生物は自然界に生息するというただ一点において、その個体以外のなんぴとによっても、生命を所有されない」という主張である。さらにこの主張は「その生命を奪ったものが、その入れ物(なきがら)を体内に摂取することによってのみ、生命所有の移動はおこりうる」と続く。

むろん時にはこうした主張が、現行法の所有概念と齟齬をきたす場面も見られる。たとえば「畑のほうれん草は、それを作っている農家の所有物ではなく、ほうれん草そのものに所有権があり、それを採った人が茹でて食べることにより、所有権は食べたものに移る」という解釈は、20世紀末の現時点では一般的にまだ認められていない。しかし、アタックが示唆する大胆な生命哲学は、環境倫理学の分野で新しい「自然の権利」のありかたとして注目されつつある。

人類の歴史を400万年間とすると、そのうちの大半を人は狩猟採集のみで生きてきた。農業や牧畜などの定住的生活がはじまったのは最後のわずか1万年間にすぎない。アタックとは、本来の人間の生活を再確認し、「生きること」と「食べること」このふたつをダイナミックに結びつける哲学的行為であるといえる。