人間活動と環境(その2)

[KOK 0060]

18 Jun 1997


愛知県で万博が行われることが決まった。会場は海上(かいしょ)の森。なにをかくそうこの森こそ、わたしの少年期を育んだ場所だ。小学校の5年生のときに瀬戸市にうつり住み、いらい京都に移るまでの9年間、わたしは何度となくこの森をおとずれ、ひとりけものみちを歩きながら、日が暮れるまで遊んだ。

いまでこそ自然保護団体からいろいろ騒がれているが、当時のわたしにとっては、たまたま家から自転車で30分くらいのところにある、ただそれだけのごく普通の里山だった。なにしろどこにでもある普通の雑木林だ。そのうえそのころはアウトドアなんてことをいう人も少なかったから、とりたてて遊びにくる人がいるはずもなかった。たぶん今でもあの森のけものみちの、すみからすみまで知り尽くしているのは、暇人の少年生活をあそこで送った、わたしだけだと思う。

昔からお付き合いのある人は、いっしょに何度も山に遊びにいったことを覚えているよね。濃尾平野が一望できる「ものみ山」も、暑い夏の日に泳いで遊んだ「しのだ池」も、廃線問題で使われてなかった愛環鉄道の恐いトンネルも、みなこの海上の森のエリアだ。

ただ、つい最近、ひさしぶりにいってみたときには、ずいぶん林道が整備されて、しかも万博予定地とかで話題になっていて、RV車でバーベキューをする家族連れ(日本中どこにでもいるけど、なんとかならないかね、こいつら)がやってきてたりした。ずいぶん変わってしまったんだな、なんて思った。使い古しのたとえだけど、子供のころに好きだった女の子が突然アイドルになったような、ちょっとさみしい感じかな。

くりかえすが、どこにでもある里山である。ただ、たしかに、本当のことをいうと、わたしだけの大切な秘密の場所はいくつかあった。食草のカンアオイが自生する海上の森では、個体数が激減し虫屋の垂涎の的になっていた、春の妖精ギフチョウが、カタクリの花を求めて舞っていた(もちろん昆虫少年のわたしにとってはこれは最大級の重要機密である)。食虫植物モウセンゴケが自生する沼には、日本最小のトンボ、ハッチョウトンボが群居していた。山の斜面に作られた鎌倉時代の登り窯あとからは、割れた陶器がざくざく出てきたし、稜線沿いには、竪穴式の古墳群が続いていた。

万博実施がこうした素敵な森の破壊につながるという主張はとってもよくわかる。でも、反対している人の中で、ここが注目される以前からこの森で遊んでいた人はどのくらいいるのだろうか?あるいは万博賛成の人で森を知っている人はどのくらいいるだろうか?(こちらのほうはかなり絶望的だな)わたしは「環境万博」とか「自然派万博」という言葉をまったく信じない。こいつもどうせお決まりの利権がらみの開発だろうから。

海上の森を庭のようにして遊んだ立場のわたしが、ここで自然のことを、あえて語るのだとしたらこうなる。海上の森も諌早の干潟も、そこに住んでいる人にとっては、ごくごく当たり前の、とりたてて価値のない風景なのである(あの「美しい」白保の海ですら地元の人にとってはただの海なのだ)。だから、逆に自分たちの周りにはめでるべき自然がないのだといっている人こそ、もういちど慎重に自分たちの周りをもう一度みなおすべきなのではないか。遠い世界の熱帯雨林について気を回すこともたいせつだが、自分のうちの近くの公園に密かな楽しみを見出すことが必要なのではないか。

なんか陳腐な正論だね。だけどたとえ有名でも抽象的な美しい自然よりも、個別具体的な秘密の場所のほうが、ずっと大事だってことよくあるとおもう。手のとどかないアイドルより身近な女の子とかさ。環境問題もそんなかんじではじめたほうがいいとおもわない?

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Takekawa Daisuke