さらし首

[KOK 0063]

05 Jul 1997


神戸の酒鬼薔薇事件についてかこうと思う。すでに犯人が明らかにされる前から、私は一貫して、この事件の報道のあり方を批判してきた。犯人が14歳の少年である可能性が高くなった現時点においても、状況は悪くなることはあれ、筋違いの報道が量産されていることに変わりはない。

まず、この事件のリアリティとはなにかを考えてみてほしい。ある小学生が突然、なにかの事件あるいは事故で死んでしまうということは、たいへん悲しいことではあるが、日本全土を視野にして考えれば、日常的な出来事である。

土師淳君の死の持つ意味は、彼の両親あるいは非常に親しい人にとっては、単なる(こういういいかたは語弊を招くだろうが、あえてかこう)最愛の息子の死である。彼らにとってのリアリティは、淳君がどのように死んだ(あるいは殺された)かではなく、ただこの世からいなくなって二度と会うことはできないという、深い悲しみのはずである。

ワイドショーやニュースでくりかえしくりかえし再現される淳君の写真や、識者のしたり顔の分析は、淳君の死をまさにリアルな体験として受け止める人にとっては、まさしくセカンドレイプそのものである。

これらの報道は、誰のためになされているのだろうか?考えるだけでもおそろしいことではあるが、まちがいなくこの報道は、酒鬼薔薇聖斗君と、この報道をみつめるわれわれの聖斗的心性にむけられているのである。われわれは、酒鬼薔薇君を狂気の世界においやり、自分たちは安全(正常)な世界に身を置いているふりをしながら(あるいは、と信じながら)、この事件が生み出した物語に夢中になっている。

事件は身体的なリアリティをはなれ、さまざまな物語を付与されながら、われわれと、酒鬼薔薇星斗君を楽しませてくれる。報道は、まさにそれを強力にサポートする脇役者である。

いや、マスコミこそがこの事件の主犯者といってもよい。なぜならば、酒鬼薔薇星斗君はすでにいちど物語を作るのに失敗しているのだ。彼は、金槌で女の子を殺すという「殺人」を遂行している。「殺人」という次元でいえば、淳君の事件もこの女の子の事件も、同じレベルのものである。しかし、女の子の事件は、物語として不十分であった。マスコミは、女の子の死にはさほどおおきな関心を払わなかった。

淳君の事件がなぜ物語をもちえたのか、いうまでもなく、あの「さらし首」のせいである。すなわち、事件を計画実行した酒鬼薔薇星斗君と、あのさらし首に興奮したわれわれは、明らかに同じ意味世界に生きている人間である。


「平家一門の墓」写真と記事はいっけん関係ありません

だが、「ああいう報道をしてはいけない」、というのは健全な近代的人間中心主義者の発言である。人の心にひそむ暗部を抑圧し、無視することによって、ヒューマニズムははじめて成立する。ほとんど多くのマスコミ批判は、このレベルであった。しかし私ならこういう、「闇をみつめろ」。私も含めて誰も彼もが、客観的な立場にはいられないのだ。正直にかこう、私と酒鬼薔薇君は共犯関係である。

多くの教育学者・心理学者・犯罪学者がこの事に触れないのは、むしろ奇異である。彼らがさまざまな言葉を操りながらも、自分がどれほど酒鬼薔薇君とシンクロしているのかを告白しないのは、彼らの頭が悪いのか、ひたすら闇におびえる子羊なのか。

そして写真雑誌フォーカスは、意識的か無意識的か、もうひとつの「さらし首」を演出してくれた。実際のところ、事件の真実を知るための手がかりとして、犯人の顔写真なんてたいして役に立ちはしない。写真を公開した編集部も、あの雑誌を買う人々も、真実を知りたいのではなく、物語を完成させたいだけなのだ。自分が絞首台につるされることまで夢想していた酒鬼薔薇君もなしえなかった闇の物語を。まあこれで、つぶれかけのフォーカスも、一気に廃刊の口実ができて、編集部としても一石二鳥というところか。

わたしは酒鬼薔薇聖斗君にもっと世界のことを語ってほしい。ちまたには自覚のないバカどもがあまりに多すぎる。あなたの中の酒鬼薔薇、わたしの中の酒鬼薔薇、ラララララ〜。

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Takekawa Daisuke