トランスカルチュラル宣言1

[KOK 0131]

09 May 2000


「カスタムとイデオロギーとモード」

博物学的人種研究とともに誕生した人類学は、20世紀には文化相対主義を掲げ西洋中心主義を批判した。しかしこの文化相対主義という考え方は、台頭するナショナリズム(国家主義・民族主義)が生み出す新たな抑圧の前に、両刃の剣であることが露呈した。「我」と「彼」を並列的に配置する相対主義は、ナショナリズムの差別的で残虐な側面を支える論拠として利用されたのである。

ならば、すでに文化相対主義の限界は見えたのか?人類学の役割は終わったのか?いや、ことはそう単純ではないだろう。

すこし気負ったいい方を許してほしいのだが、現在の人類学的思索は、むしろ21世紀の人間社会を予言する糸口を発見しつつあると、ぼくは考えている。それがよい未来なのか悪い未来かは知らないが、確かに新しいパラダイムを予感させる手応えを感じている。そんな話を今日はしたい。うまく整理しきれていないのだが、この文章は、もしかするとぼくの転向宣言になるのかもしれない。

人類学者とは「未開」の理解者のふりをした近代人である。こんな「まやかしの未開」研究になんの意味があるのかという批判を自覚しながらも、しかし、人類学者がフィールドにこれほど魅惑されるのはなぜなのか。人類学者がフィールドで出会っているものは何なのか。

人類学は民族研究だと一般的には思われているようだが、ぼくはそれに違和感を感じる。民族というよりずっと小さな共同体、もっと厳密に言えば明確な輪郭のないマイノリティ(少数者)。つまり、それは土着としかいいようのない忘れられた周辺である。少数民族主義者、ぼくはこれまでそう自称していた。

むろん、フィールドにいった者が語ることのできる土着とは、あくまでも近代的思惟によって切り取られた仮の姿である。しかしそのちっぽけな土着に心を寄せている人類学者はいったい何をしているのだろう。

たとえば身体的な経験として理解しあえているという実感は、どこからくるのだろう。フィールドで感じるリアリティは本物?それとも偽物?人類学者とフィールドとの関係は個別具体的な事象で、そこから普遍を読み取ろうとする作業の意味は?

誤解を恐れずにいえば、熟練したフィールドワーカーは、服を着替えるように、文化を着替える。そう、文化をモード化している。

文化、それはわれわれ人間の生活に欠くことのできない「行動の枠組み」あるいは「価値の総体」である。そこでまず、その文化の様態(立ち現れ方)を、おおきく3つの段階にわけて分析しておきたい。

【カスタム】
最初の様態をカスタムと呼ぼう。これは伝統的で因習的な文化である。土地と強く結びつき、多様であり個別的な性質を持つ。ぼくが先ほど使った土着という言葉で言い表されるようなローカルな存在である。カスタムは所与のものとして、意識されないまま人々の生活をおおっている。そして、それは人間の身体性や環境の自然性に最も近いところにある。

【イデオロギー】
ふたつめの様態はイデオロギーである。近代に入るとカスタムは、イデオロギーとして再編され普遍化された。さまざまな伝統は「再発見(発明)」され、国家主義や民族主義をささえる思想的背景に変容した。イデオロギーは国家や民族といった幻想の共同体を創設し、ナショナルな近代システムを支えた。イデオロギーはカスタムと異なり明確に意識化され、その外にある他者をまきこむ性質がある。そしてイデオロギーという形式では、文化は一定の枠組みのなかで画一化をめざす。

【モード】
異なるイデオロギーのぶつかり合いは意味を浮遊させ、実体が喪失し文化の形態はモードへと向かう。文化は再び多様性をとりもどす。モードにおいて文化は初めて共同体の枠組みを外れ真にグローバル化する。ここでいう真のグローバル化とは、単純に世界中を席巻するという意味ではない。全面的な席巻はインターナショナルという名のナショナリズムの一種にすぎない。むしろグローバルとは「根なし草」のような、個別性から切り離されて漂うイメージである。モード化がすすむと、あらゆる側面で価値の代替(交換)可能性は増大し、文化は無毒化し矮小化され手軽になり、究極的にはすべてシミュラクルになる。そこでは本物であろうと偽者であろうと関係ない。モードもまた個人によって意識化されるが、イデオロギーと異なり他者をまきこむことはない。

整理しよう。カスタムはローカルであり、イデオロギーはナショナルであり、モードはグローバルである。それにともなって文化の担い手は、個人や目に見える小さな共同体から、幻想の共同体である国家に移行し、ふたたび輪郭がとりはらわれ再び個人へ舞い戻る。身の回りの世界を支配していたカスタムが、近代になってイデオロギーに吸収され、やがてその虚構性があらわにされるとモードの時代がやってくる。

21世紀は、服装・音楽・食生活・道具・宗教・言語・国家・民族・貨幣など、あらゆる文化がモード化する時代になるだろう。

文化の立ち現れ方が変われば、個人の「こだわりかた(価値の実現)」も変わる。カスタムの時代のこだわりは生活に密着した知恵であった。イデオロギーの時代においては、こだわることは権力あるいは反権力にむすびついた。こだわる人間は良くも悪くもこだわらない人間を支配した。モードに時代におけるこだわりは個人の問題である。多様で自由な(オタク的)こだわりが容認され、こだわりつつもこだわらないふりをする者が権力を手に入れる。

権力構造が逆転するのだ。二年ほど前ぼくはこくら日記の88「新権力論」において「どちらでもいい」という立場にかくされた権力ありかたを考察した。「ある決定に自分の利害を持ち込まななくてもいいという立場こそが、たとえば公務員の権力を高めている」「独占禁止法は資本主義を抑制するものではなくむしろ維持するための仕掛けである」「成熟した資本主義社会においては気ままな消費者こそが権力者である」と。

近代が、人の営み(労働)を商品化した時代だとすれば、次にくるのは、人の嗜好(文化・価値観)を商品化する時代といえる。そして権力は、労働の買い手(資本家)から、嗜好の買い手(消費者)に移行するのである。

さて、いよいよ文化相対主義の真の恐ろしさが発揮されるときである。繰り返すが、それがいい時代か悪い時代かはわからない。(後半に続く)

【参考文献・これを考える上で特に影響を受けたもの】
「抵抗する都市」松田素二
「象徴交換と死」ボードリヤール
「可能なるコミュニズム」柄谷行人

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Takekawa Daisuke