不自由な奴隷ふたたび

[KOK 0154]

21 Apr 2001


教育問題、福祉問題、ジェンダー問題、差別問題、民族問題、一群の社会問題をあつかう研究者がいる。

彼らはまるで内戦国でボランティアをする医療団のようである。それは、「たとえまた戦場に送ることになるのだとしても、負傷した兵士の治療をやめるわけにはいかない」という意味において。

彼らの勇気や人道的意識を貶めるつもりは全くない。彼らの行為の必要性を否定するつもりもない。しかし彼らの行為が、問題を「終わらせる」ことに対してどれだけ力になるのかという点に関しては疑問を感じる。

「問題群研究の問題点は、問題そのものを問題にできないことである」。ぼくが問題群研究者に相容れない点を感じる原因はまさにそこにある。問題群研究は一種の対処療法である。しかし根治療法、すなわち問題そのものを考察の対象にするには、さらに別の論理的枠組み(パラダイム)が必要ではなかろうか。

それに対し「問題があるからこそ問題なのである」といいきる社会構成主義の立場は明快である。問題が問題たるゆえんをメタレベルから切り捌いていく。しかも自分の手は汚さずに。

しかしその立場にもぼくは違和感を感じる。実体もないところからどうして問題が生じるのだろうか。彼ら自身は問題を「起こさない」のだろうか。研究者の権力性をも解体することで本当に個別具体的な問題に立ち向かえるのか?大切なのは権力性を否定することではなくて権力性を自覚することではないのか?

さて、ここでふたたび不自由な奴隷について考えてみたい。

中世の奴隷たちは、不自由だったか不幸だったか、そもそも自分たちを不当な奴隷であると自覚していたのか。

戦争に負けた捕虜だから、別の民族だから、卑しい血筋の生まれだから。奴隷たちは、さまざまな理由付けによって、自らの状況を説明し、納得し、それを当たり前だとうけいれながら生きていたのではなかろうか。

その逆に、すべての奴隷たちが自分の扱いを不当だと認識したとき、彼らはすでにもう奴隷ではない。だから、彼らが奴隷であるということは、実は彼らが不当性に気づかないということでもある。したがってそこには問題が生じる余地はない。彼らの状況が相対化されるまで、そもそも問題群研究者はお呼びではないのだ。

いつの時代でも大多数の人々が自らの奴隷性に対して無自覚であったということは、ある意味で非常に当たり前なことかもしれない。実際の奴隷制の歴史が語るように、たとえ解放の暁が来ても、このまま奴隷でありつづけることを望む奴隷たちは多いだろう。

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地球が電車に乗る、いい歌

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ところで内部からも外部からも同時に閉塞的なそんな「安定した」状況の中で、最初に「異議を申し立て」、「問題を提起する」のは誰だろうか。それは問題群研究者でもなければ社会構成主義者でもない。そして残念ながら退屈な日常に愚痴をこぼし凡庸な満足をさがす生活者でもない。

異端者?周辺者?狂人?それとも詩人や芸術家?彼は、世界と自分の存在も含めてすべてを疑い、いつも絶えざる不安のなかに身をおくのだろう。そういう研究者がいてもよい。

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Takekawa Daisuke