学校の勉強

[KOK 0168]

19 Jun 2001


以下の文章は、ほかのMLの返事に書いたものだけど、せっかくたくさん書いたのでこちらにも流します。

黒板をノートに写したり教科書に線を引いたりしていろいろ覚えることが勉強だ、と学校で教えられてきた人は、たぶんとても多いと思います。でも、ぼくはずっとそんな考えになじめずにいました。


Mさん、こんにちは

ぼくは授業中にノートを取ったことがほとんどない生徒でした。たしかに、よく板書を写させる先生がいましたが、教科書やほかの本に書いてあることを写してなんの意味があるのだろうという疑問がずっとありました。

授業中は先生の話を聞きながら、もっぱら、話の論理的な矛盾や、間違い、別分野への応用、別の視点からの理解なんてことについてひとり妄想してました。

その気になって聞いていれば1時間の授業でもひとつやふたつ必ずおかしな点が見つかるんです。嫌な生徒です。この姿勢は今でもそれはあんまり変わりません。人の文章よんでてもすぐ「どこか矛盾はないか、ちょっと違うんじゃないか」という視点で読んでしまいます(ごめんなさい、みなさん)。

あと授業中の暇な時間をつかって、写真が綺麗な副読本とかを一人で読むのが好きでした。すみからすみまで読むので、半年もすれば何がどこに書いてあるのかほとんど覚えてしまいます(これがまた教科書よりもずっと詳しいのです)。授業に関連する内容のブルーバックスなんかの新書のたぐいを読んでましたね(怒った先生に取り上げられたこともしょっちゅうです・・・)。

ノートを取らないと決めると、授業中というのは本当に暇ですから・・。

ぼくが、どんな風に「勉強」してたのかなということをちょっと考えてみました。

小学校の低学年の頃から、自分の記憶力は人並みか、もしかしたらそれ以下かもしれないという自覚がありました。(今でも人の名前とかなかなか覚えられません)。どちらが結果でどちらが原因かわかりませんが、そこでぼくはこう考えることにました。どこかに書いてあったり、誰かが知っていたりするものは「覚えなくていい」。

この方針は今も変わりません。ぼくにとっての「勉強」というのは、要するに頭の中にインデックス(索引)を作ることで、本を読んでも人の話を聞いても、「なにがどこに書いてあるのか、だれに聞けばわかるか」さえ知っていれば、詳細まで記憶しなくてもそれで十分だというものです。

これは難しく言えば脳の記憶機能を外在化させる作業とでもいうのでしょうか。

いずれにせよ、なにからなにまですべて覚えようとするより、ずっと効率がよいのです。授業中に読んでいた本や先生の話は、すべてその場で頭の中で再整理されインデックス化されました。なにせノートをまったく取らないのだから暇な時間はいくらでもあります。

インデックスさえできていれば、すぐに調べがつくから暗記しなくても平気です。そうなると教科書に書いてあるようなことなんて、いわば全国の人がみんな知っているのだから、ほとんど覚える必要がありません。

ただ、教科書や資料集の何ページのどこら辺に何が書いてあるのかということについては、人一倍よくしってました。教科書以外の本を読むときも同じで、詳しい内容は忘れても、ある事柄について書いた文章がどの本の何ページあたりにあるかということは非常によく覚えてます(いわば、ぼくの研究室の本棚はぼくの脳と一体化しているでのですね)。

それともう一つ大切なのは、話の筋道と論理性ですね。暗記に頼らない(頼れない)人間にとって、ものを理解する最大の手がかりは、いろいろなことがらの因果関係です。だから数学はとても好きでした。ひとつの筋道(論理)を覚えれば、ほかにいくらでも使えるし、あらゆる事象が因果関係で説明されてましたから。

そして、歴史も地理もぼくにとっては因果関係の束として理解されました。因果関係で覚える人にとっては、それにまつわるエピソードは多ければ多い方がいいのです。視点も複数あった方がいいのです。たしか「ものがたり日本の歴史」というような表題だった思うのですが(実家の本棚のどこにあるのかは覚えていても、本のタイトルは忘れてます)、いわゆる史実がほとんどない庶民の暮らしが延々と十数巻(具体的に何巻かということは問題ではなく、とても分量が多いということが大切)とかかれた本がぼくの愛読書のひとつでした。筋道で理解すると、具体的な年代は覚えられなくても、史実の前後関係はまちがえません。

生物学をやろうと思ったのも、小さい頃から虫や動物が好きだったというのもありますが、生物の精緻なメカニズムとその物理的な因果関係に惹かれたからです。

どうして、ほかの人はこのやり方でやらないのだろうと昔から思っていました。ぼくは浪人するまでいわゆる学習塾には一度もいったことがありませんでした。時間の無駄だと感じていました。インデックスをつくる作業は一人でやった方が効率がいいのです。読みたい本もたくさんありましたし、知りたいこともたくさんありました。

家庭教師をしているときや大学の授業などで、この方法を勧めたこともあるのですが、明らかに向いている人とそうじゃない人がいるみたいです。小さい頃から記憶力で勝負してきた人には、考え方を切り替えるのがとても難しいようです。

ぼくはたぶん小さいときから、親にいろいろなことを論理的に教えられてきました(そういう親でした)。親も覚えさせことにはほとんど関心がなく、むしろ考えることを勧めていました。「なぜか」を考えるのが大事で、「答えまで行き着かなくてもそれでいい。人生や世の中は答えがないのがふつう」といつもいってました。

受験の時はそれなりに苦労しましたが、マークシートの試験って、そのものズバリを覚えてなくても、因果関係がわかれば結構解けるのですね(ぼくは定期試験はまるっきり駄目で歴史のテストで漢字のまちがえとかよくやってました。でも正直に言えばそんなのどうでもいいと思ってました)。そして、逆に論述問題は、論理性の勝負ですから独壇場です。

さらに大学に入ってからこの理解のしかたは非常に力になりました。どんなに記憶力がよい人でも所詮ある分野の知識をすべてを覚えることなんてできないのですから。そして、たぶん年をとってさらに記憶力が減退すると、記憶に頼らない勉強法はより一層効果が増すとおもいます。それに、ぼくが身を置いている世界では知識の量よりも、むしろそれをどう使うかという論理性がものをいうようですし。

さいごに、生物学から人類学に分野を移したひとつの理由は、それまでぼくがずっと依拠していた論理的枠組みそのものに疑問を感じるようになったからです。人類学というのは面白い学問で、自らの論理的枠組み自体を研究の対象にしてしまいます。人間が人間を研究するのですからそれはいわば宿命なんですね。

さて、なんか、読み返すとかなりポジティブな書き方をしてますが、なにがなんでも覚えさせようとする学校や教師との軋轢は大変なものでした。それにこういう作業って、つきつめるとちょっと狂気がかってきます。なにかに確信したり思いこんだりすることに対しては、非常に気を遣うし、常に自分の考えに違和感と疑問を持ち続けないといけないから。

つらつらかくうちに妙に長くなってしまいましたが、そんなもんです。


さて、やっぱり勉強法って人によっていろいろあるでしょうね。Mさんから「ぜひみなさんの意見も読んでみたい」というお申し出がありました。実はぼくも興味があります。

そこで、「自分の勉強法」や「学校の勉強ってなんだったんだ」というあたりのことについて、みなさんのご意見をあらためて聞いてみたいと考えています。

人に勧めるような優れた勉強法についてではなくて、むしろ勧められない失敗談や勘違いの方が楽しそうです。自分だけの特殊な勉強観でもいいですし、ごくありふれた勉強法がいかなる結果を生みだしたかと言うお話でもいいです。勉強法といってもたんなる How to 話じゃなくて、世界観や人生観もちょっと混ぜてくれるとうれしく思います。

面白い話が集まったら、すでにお返事をいただいている人の分もあわせて、以前の「やさしさの問題」の時のように再編集して「こくら日記」で送ろうと考えています。

みなさんのお話はもしかしたら、「あなたの研究はあなただけのものです、だから自分の研究をしてくださいね、じゃあね、バッアーイ」なんてわけのわからんことを言われて、指導教官にイギリスにとんヅラされて、今だにとまどっているうちのゼミ生たちの役に立つかもしれません。せめて時にはぼくもゼミ生たちに教師らしいアドバイスを贈ってやりたいのです(なぁんて嘘ばっかり、適当に理由こじつけてるのが見え見えですね)。

いずれにせよ、お便りを楽しみにしてます。

それと、もう一つ。次の話題に関連することですが。紙と鉛筆を用意してください。そしてなにも見ないで、その場でささっと「フラミンゴが片足で立っている絵」と「ダチョウが草原を走っている絵」を書いてみてもらえませんか?ただ書いてくれるだけで結構です。そしてその絵を、次の「こくら日記」が来るまでどこかにおいといて下さい。

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