みんなが好きなナショナリズム

[KOK 0179]

15 Aug 2001


この文章は、先日の参院選の直後に書いた物だが、忙しくしているうちに出すタイミングを失ってしまった。あれから一ヶ月以上が過ぎた今となってはまた風向きが少し変わってきているのかもしれない。十年一日の政治とは対照的に、秋空に浮かぶ風船のように気まぐれな日本の世論が現在どうなっているのか、イギリスまではぼんやりとしか伝わってこない。少なくともぼくが日本を出た3月のおわりに今回の自民党の圧勝を予測したものはほとんどいなかっただろう。かの日本の熱狂を思えば、まるで浦島太郎のような気持ちだが、現時点の日本の世論がどうあろうと本質的に人間がそんな簡単にかわるとは思えないので少しだけ手を加えて送ろうと思う。

hi
たそがれ

さて、少し前にはやった言葉ではあるが、ポジティヴシンキングという言葉がある。これがどうにも好きになれない。でも世の中、悪く考えればいくらでもつまらなくなるのだから今ある世の中をできるだけ楽しく考えて生きようとか、なにごとにたいしても積極的に肯定するほうが健康的だとか、不満を言うより建設的に考えるほうがいいじゃないとか、頭の貧しさもお金の貧しさも芸術的センスの貧しさも含めて、貧しさの中にも貧しさなりの幸せがあるとか、自己受容することによってしか苦しみから逃れられる人もいるのだとか、機関銃のようにこんな反論を受けると、返す言葉もないのだが、とにかく昔から生理的にそういうのに全くなじめないのだ。

嫌だ嫌だ、気持ち悪い。なにがそう感じさせるのかうまく説明できないのだけど、ダメなものはダメだ。端的に言えば大きなお世話。明るさや健康さは確かにすてきかもしれないが、それを維持するために排除隠蔽している物のことを考えるとよけいに気が滅入るし、いい加減さや無責任さは自由と同時に真摯に追求すべき課題であるが、口ではわかったようなことをいいながらもいざとなるといとも簡単にそれを自己肯定に収斂させていく醜い人を見るたびに吐き気を催す。

こんな嫌な気持ちになるくらいなら、ネガティヴシンキングでいい。たとえ世界中を敵に回しても、誰からも理解されなくてもそれでいい、自分をだますようなことはしたくない。ああ、うまくいえないな。うまくいえない。どうして、こんなに簡単なことなのに、こんなに大それたことまでいわないと説明できないのか。

精神的外傷から立ち直るためのプログラムとか、効果的な人間教育のためのプロトコルとか、人づきあいのための大切なルールだとかいう話を聞くと、無意識に体が身構えてしまう。たとえそれが、現実に困っている社会的弱者を救済し、多くの人々の利益にかない、さらにあなたのためにも良いことでもあるのだ、とそんな風に説明されてもダメなのだ。それがなにかの役に立つことくらいはわかっている。効果がないと否定しているのではない。効果はある。大ありだ。だけど、だからこそ、そういう社会も、そういう物を求めようとする人々も、絶対的に気持ち悪いのだ。

幸せならばそれでいいの?きれいに隠蔽できればそれでいいの?

"Japan's cult hero PM wins new mandate for reforms." これはインディペント誌の見出し。PMとはポケモンではなくプライムミニスターのことである。「日本のカルトヒーロー首相が改革という新しい政策によって勝利した」。タイムズをはじめ参院選翌日のイギリスの新聞はほとんど日本のことは取り上げていなかった。その中で日刊紙インディペンデントと週刊誌エコノミストは少し多めに記事を載せていた。ただし、内容は辛口だ。口では改革路線を唱えているがいまだ効果的な経済政策を具体化していないとか。マスゾエ某をはじめとするTVタレントとプロレスラーが活躍して票をかせいだとか。靖国参拝で外交上の問題を抱えているとか、たぶん日本でも報道されているようなそんな話だ。

しかし、構造改革の話題をのぞけば記事の焦点のひとつは、タイトルにも出ているような彼の異常な人気にたいする不思議さだ。紙面にはポップスター、スーパースター、日本の偉大なホープなどという言葉が並ぶ。もちろんイギリス人のことだから相応の皮肉も込めて。

そしてかの新ヒーローは、日本遺族会がもつ票のためではなく、ましてや政治的な判断でもなく、個人的な感情の問題として靖国神社に参拝するのだという。なるほど、どんな感情なのだろう。「日本国民の生命を守るために、粛々と戦地に赴き、異国で華と散った英霊たちを慰めたい」そんな「人間として自然な」感情なのかな?

よく戦時中の民衆は悪い為政者にだまされていたと言う人がいるけれど、英霊などという言葉遣いを平気で受け入れられるわれわれはだまされているうちにはいらないのだろうか。その心性は戦時中の人々とどこが違うのだろうか。われわれがだまされているのでなければ、彼らもだまされていたわけではないし、われわれがだまされているのであれば、彼らもだまされていたのだろう。

同じ現象を「日本の領土を拡大するために、国策に異議を唱えることなく戦地に赴き、無謀な自殺攻撃を繰り返した奇怪な侵略者集団」そういってしまってはなぜいけないのだろうか。解放という名の侵略、玉砕という名の全滅。散華という名の犬死。美しい言葉を捨てて、自らの祖先や自らの歴史を否定的に語ることは、それ自体イデオロギーにおかされた古くさいやり方なのだろうか。

すべての言説は「解釈」の問題として相対化されるという立場は、後者の「正論」の口を封じたようだ。イデオロギーは虚構性をあばかれ解体し、正論はギャグの一種でしかなく、いまや思想的に残されたものは差異の表象にすぎないのだそうだ。「イデオロギーではなにも解決しないのだよ、過去の苦々しい経験からわれわれはそれを学んだのだ」とうそぶくスマートな知識人や蘊蓄好きな理屈屋さんたちは、自分自身すでにイデオロギーを超克した宇宙人になれたというだろうか。

今の時代の思想とは自由な市場で好きな物を選ぶファッションのようなものであって、頑迷なこだわりを差異の戯れとして笑い飛ばすことが・・・かっこいいの?ほんとにそうなの?はて、そんなことをして得るものは何なの?「いろんな意見があるのは良いことだ」といいながら、自分にとって不快な問題を希釈し、知らず知らずのうちに聞こえのよい言葉ばかり選んでいく、こうした行為自体イデオロギーとは無縁なのかしら?

別の視点から考えてみようか。自由と公平さ、多様性と市場性を理念として求めるはずのリベラリズムが、全く逆の性質を持つナショナリズムたやすく結びつくこの歴史的な皮肉をどう説明すればいいのだろう。同時に民主制がその理念とは裏腹に、一貫して価値観の画一化とと少数者の抑圧装置として働いているのはどうしてだろう。

たしかに多数決の原理というシステム上の問題はどうしたってあるだろう。こんな乱暴な決定方法に甘んじなければならない時代にはどんな理想もたやすく輝きを失う。みんながいいという物で、自分もいいと思える物などめったにないのに。

しかしそれ以上にやっかいなのは、自由な市場においてこそ、群れることの気持ちよさと、人気を得ることの権力性が存分に発揮されるというまぎれもない事実である。市場は建前上は誰でも参加できる開かれた場だが、実際には大きくて影響力があるものが「ただそれだけの理由」で強いのだ。特殊で効率の悪いたったひとりのこだわりは、たとえそれが「良心的な利他的行為」であっても、あるいは「偏屈な独善」であってもやがて同じように淘汰される運命にある。無理矢理市場に放り出され押しつぶされる直前に、「よけいなお世話だ、ほっといてほしい」と悲鳴をあげても次々に繰り出される「幸せの押し売り」に最後まで抗える人はほとんどいない。

すでに本物と偽物の区別から無縁の市場では、粗悪品だろうが安物だろうが売れればそれでいい。あえて本物と呼びたければ売れた物こそ本物なのだ。どんなこだわりを込めた一品も売れなければ犬の餌にもなりはしない。なにしろ今やこだわることは時代遅れで、たいそう格好悪いことなのだそうだ。こうしてすべての思想が同じ棚に並べられ、日本国内でしか通用しない言葉をつかった、今はやりのやさしい癒し系商品が爆発的に売れていく。

あげくの果てにぬこんな愚かな主張までとびだす始末だ。消費者の価値観が相対的である以上、もはや思想的な抵抗は不可能だ、あとは外圧に期待するのみ。このままではきっとこの先、日本はアジアから総すかんを食らい不買運動が始まるだろう。イデオロギーにはイデオロギーを。悪いナショナリズムには良いナショナリズムを。ああ、どこまで市場主義に毒されれば気が済むのだろうか?閉塞的な時代の雰囲気にやけくそになる気持ちはわからなくもないが、自分の棺桶の片棒を担いでいるのに気がついていないのだろうか。

ことはとても単純で、それだけに侮りがたい。たとえば、ドイツが国を挙げて、ナチス時代の兵隊たちを慰霊する神聖ローマ教会なる物を建築し、そこにヒットラーとかゲッペルズとか一連のジェノサイドの引き金を引いたお歴々を祀り、一国の首相が個人的な感情としてぜひとも年に一度はこの教会に参拝したいという。そういう商品を買う人のことを考えてみたらいい。極東の島国でもっともらしく能書きつけて売られている靖国神社という商品も、別の目から見ればそんな不可解な習慣のひとつでしかない。

しかし、それを不可解といったところでしかたがない、そんなにまでして癒されたい人がいる以上その商品は売れるのだ。その方が気持ちいいならそれでいいじゃない。

hi
森の木

これがみんなが好きなナショナリズム。

ナショナリズムはいわれているほど怖いものでも異質なものでもない。たとえば野球やサッカーの贔屓チームを応援する心はまさにナショナリズムそのものだ。あとはそれが権力に結びつきさえすれば完成だ。愛する対象が虚構であろうがなかろうが、そんなことは一向にかまいはしない。アイドルはその名の通り虚構そのものであるが、贔屓チームのマスコット人形のようにファシズムにだってアイドルはつきものだ。参加することの楽しさ、一体化することの幸せ、面白ければそれでいいという肯定感。ナショナリズムは、不快なストレスをいやしてくれるし、なによりとっても気持ちがいい。

虚構だからとイデオロギーをなめてかかるととんでもないことになる。英霊は慰められても、戦争反対を唱えて殺された名前すら伝わらぬ人々の名誉は永遠に回復されない。これでは次に戦争をするときも、へたに反対するよりも、黙って死んだほうがましだろう。「名誉」も「鎮魂」も死んだ者には関係ない。兵士だった祖先もレジスタントだった祖先も、死を強要されたという点ではどちらも犬死にだ。でも、そこにあるのは相対的な違いだけだと訳知り顔に暴いてみたところで何もかわりはしない。だからやっぱりこの分では、次に戦争をするときも、へたに反対するよりも、黙って死んだほうがましだろう。たぶん、そういう商品のほうがよく売れる。

リベラリズムがナショナリズムに転換するしくみの裏には、誰もが持つ盲目の自己愛とより強い物に対する同一化への願望が隠されている。左翼だろうが右翼だろうが根は同じ。付和雷同の判断停止を、連帯と呼ぼうが、人気と呼ぼうが、あるいは愛国心と呼ぼうがたいして違いはない。近代というこの時代には、いっぱしの憂国の士を気取って、人のしり馬に乗ってほえる犬ばかりがやたらうるさい。

ナショナリズムは、人々の不満を消し、痛みを消し、幸せな幻想を演出する、いわば政治の麻薬だ。麻薬もナショナリズムも度が過ぎると中毒を起こす。ナショナリズムは、一般に流布している排他的で暴力的なイメージとは別にもう一つの顔を持っている。それは、同化と安心をもたらす内向きの顔だ。いつの時代でもナショナリズムが拡大するときは誰かがそれを押しつけるのではなく、現前する不満のはけ口として支持されるか、あるいはみなが望む美しい物語として熱狂のもとに求められる。

ナショナリズムそのものにに善悪はない。ただ、あなたが自らそれを「求める」か、それとも誰かから「押しつけられる」かの違いだけだ。求める者の目に善と映る同じものが、押しつけられる者の目には悪とうつる、それだけの話だ。 さらに不幸は増幅する。なぜならナショナリズムを求める人々は、みな知らず知らずのうちに他人にナショナリズムを押しつけてしまうから。政治と権力を指向するナショナリズムには生まれつきそんな性質がある。そう、学校のイジメとまったく同じ構造である。つれションと権力は無縁ではない。高い志を持った個人の集まりも、つい気を許すと、いつのまにか既存の利権を維持し傷口を舐めあう仲良しクラブに転落する。くわばらくわばら、油断も隙もあったものじゃない。

「少数者のナショナリズムは善で、多数者のナショナリズムは悪」というこんな言説にも気をつけた方がいい。たとえば沖縄ナショナリズム。もしそんな物があるとして、それこそがヤマトナショナリズムに対抗する唯一の方法だと焚きつける人間がいたら、それは先ほどの棺桶担ぎとおなじ浅知恵というよりほかにない。同じ沖縄でも宮古の人なら「首里にはつかんよ」というだろう。首里ナショナリズム、ヤマトナショナリズム、アメリカナショナリズム、そして中国ナショナリズム、離島に住むさらに少数の者にとってはどれだってさほど違いやしない。

少数者のとるべき道は、それぞれのナショナリズムと距離を置きつつ渡り歩くことしかない。民族の誇りなどというアブナイ誘いは、チャンプル文化には似合わない。混血しようが変容しようがワタシはワタシならそれでいい。ナショナリズムが引き起こした不幸に別のナショナリズムをぶつけても、悲しみは深まるばかりである。

同一言語の読み書きというリテラシー教育を基盤にしたナショナリズムは、国家という権力を背景にして、人々に麻薬づけの幸せを提供する。繰り返し繰り返し楽しげな宣伝をほどこせば、どんなにまずいハンバーガーにも人々は群がるようになるだろう。そしていつのまにかリベラルな市場は、どこをとってもみんな同じそんな画一性の寡占状態になる。

かくしてブルドーザーのようなナショナリズムは、雑然とした多様性と人をよせつけぬ豊穣さをもつ森を一掃し、牛が草をはむ明るい牧場に変えるのだろう。そうして、量産されたハンバーガーに身も心もすっかり慣らされてしまった人々は、この見渡す限りの草原の姿を見て、「ここにはすばらしくも美しい自然があふれている」となどと感動するのだろう。「麻薬は嫌だ、幸せなんかいらない」とつぶやくイラクサのように偏屈なマイノリティーを足下に踏みつけながら。

ああ、いやだいやだ。心の傷は心の傷のままでいい。どんな美談でも美談はいらない。これは決して自己受容でも自己肯定でもなく、醜い自分を醜いとはっきりいっているだけのことだ。開き直るでもなく、無視するでもなく、それも含めてワタシなのだから、カッコつけてどうするの?それにしてもポジティブシンキング・・・かえすがえすも嫌な言葉だねぇ。

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