関係ない

[KOK 0190]

09 Nov 2001


「関係ない」。この強烈な一言を頭の中でなんども反芻する。

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たしかにそうなのだ。世の中の事すべてに関係できる人なんてどこにもいない。それどころか、ひとりの人間が一生の間に関係できる他者の数なんてたかがしれている。

産業化が進み、政治的枠組みが巨大化し、物や情報の移動範囲が拡大しても、人間の生物学的な「身体・認知」能力はそう簡単にはかわらないだろう。

「経済的」や「政治的」な関係性をちょっと脇に置いておいて、とりあえずどんな文化でもどんな時代でも、ひとりの人間が一生の間に「心理的」に関係性を感じられる相手の数は、高々1000人くらいではないだろうか(年賀状の数から類推してみて欲しい)。日常的に一定以上の関係性を共有できる人の数はさらに減り、せいぜい100人にも満たないだろう。

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たしかに他者との関係のありかたは、数世代もさかのぼる祖先などの血縁者や共同体のメンバーなどの狭く限られた領域から、いつのまにか地域や言語を越えた世界レベルの広い範囲に及ぶようになった。そしてメディアの発達のおかげで、直接対面する相手以外にもさまざまな関係性をつくることが可能になった。

しかし、ひとりの人間が心理的な関係を「きりむすぶ」ことのできる他人の絶対数には、どうしたって生物学的な制約がある。たぶん想像の体系であるイデオロギーとは、この生物個体としての能力に依存した心理的制約をうち破り、拡大する「経済的」「政治的」現状に、人の能力をあわせていく一つの解決策なのだろう。

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東京でもロンドンでもパリでも、大きな街にすむ人には共通する特徴がある。できるだけ他人に関心を持たないようにしながら、一方で自分のプライベートを犯されることに対して激しく嫌悪感をもつ。つまり「遠いよその国の戦争よりも、デート中の切れないステーキに腹を立てる」のだ。近代化が進めば進むほど、なぜかプライベートな領域は狭くなりそのガードは強固になる。そして最終的に、みな窓のないモナドになる。いったいそれは、何を意味しているのだろう。

「関係ない、ほっといて欲しい」。たしかにこれは、マイノリティーの人々が覇権的なイデオロギーを拒むためにかろうじて可能なスタンスとして、ぼくが持ち出した言葉でもあった。「アメリカのビルが崩れようが、アフガニスタンの難民が死のうが、ぼくには関係ない」。ホントにその通りだと思う。皮肉でもなんでもなく、これはまったくすがすがしい立場だと思う。

しかしはたして、想像の体系を持ち出すことなく「経済的」「政治的」事実と「心理的」現実のギャップを埋めることはできるのだろうか。

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Takekawa Daisuke