[KOK 0230] こくら日記のトップページにとぶ 10 Jul 2003

戦争を止めてきた人々

 

ゼミの学生たちと野研のメンバーと泊まりがけで「ゆふいん文化・記録映画祭」に参加した。

デジタルビデオカメラやコンピュータ編集もずいぶん手頃になってきたので、われわれも映像記録による民族誌の可能性を探っていきたいなんて思いはじめているのだ。ゼミ生にもそんなのに興味がある者がいて、ドキュメンタリー映画漬け2日間は、ちょうど良い機会となった。

由布院という街を舞台にしたこの映画祭のイベントとしての演出も、招待された監督たちとの交流も、いうまでもなく上映された映画そのものも、どれをとってもすばらしいものだった。また来年も行こうと思う。本来ならばそれらひとつひとつについて詳しく書きたいところだが、それ以上に、今ここで書いておきたいことがある。

それは2日目の午後のプログラムのドキュメンタリー『流血の記録 砂川』(1956・亀井文夫)についてである。

これは1955年9月に、東京都の立川基地周辺で起きた米軍基地拡張に対する反対闘争に関する有名な記録映画である。戦争が終わって10年しかたっていないこの時代に、はやくも日本の政府とアメリカは、次の戦争への布石を打とうとしていた。そして、それにあらがおうとする農民たちが砂川にいた。

「流血の記録」と題されてはいるが、日本の戦後の社会運動史の原点ともいえるこの闘争は、その後の15年間に起こったさまざまな闘いに比べると、遙かに牧歌的であり人間的であり静かな闘争であった。

武器も防具も持たない人々は、相手の暴力をいさめるように自らの身体を権力の前にさらしながら、ねばり強く道理を訴えつづける。スクリーンにはそんな風景が映し出されていた。それは決して、反権力や階級闘争や革命といった華々しい言葉で語られるような運動ではなく、心に杭を打たれる事を拒否した人々による、平和への思いが滲み出るような運動だった。

1955年といえば、まだ戦争の記憶も生々しい時代である。もう二度とあの時代に逆戻りしたくない、そうした気持ちはこの時代を生きた人々にとってきわめて具体的で現実的なものだったはずだ。

「戦争を知らない子供たち」よりも一世代前に生まれた父が、幼い頃から私に幾度となく語っていたことが、映画を見てはじめて理解できたように思った。夢見るような理想を語る社会変革よりも、正義や純粋さを求めながら先鋭化する闘いよりも、ずっと地道であたりまえの抵抗がどれほど人を動かすのか。

自分の息子の名に平和を祈念した父が語る革命とは、「殺されるのも殺すのもいけない」というきわめてナイーブな、しかし困難をともなう戦いだった。それはたとえひとりになっても決して絶望しない、そう「自死」すら選ばせない厳しい生き方だ。

後に続いた「戦争を知らない子供たち」の戦いは、年を追うごとに激しくなり、抵抗は怒りに結びつき、歯止めのない道へと導いていった。敵はあくまでも敵であり、やられたらやりかえす。そしてその戦いは、全面展開どころかただの一点すら突破することもできず、虚無感と無力感のはてに終焉をむかえた。その時代のすべてが無駄であったとは言わない。いや、いまでもそうして自分の生を模索した人々を尊敬する。

むしろ、熱が冷めるのとあわせるようにすべての可能性を閉ざしてしまったそのさらに後の時代を疎ましく思う。権力はいつの間にかベールの中に姿を隠し、疲れた私たちは力を放棄し、心の世界に閉じこもり、管理を求めようとする自分自身の影におびえるばかりだった。いっけん穏健そうにみえるその立場は、しかし、およそ平和主義とはほど遠いものだった。

この言いようのない閉塞感を、まるで特効薬のように打開してくれる革命や反権力への闘いに対する漠然としたあこがれは、まだどこかに残っているのかもしれない。異常ともいえる高揚感の中で、あらわにされる権力者をその玉座から引きずりおろす時の快感。歴史を動かすのはそうした劇的な瞬間であろうか。

しかし、頑強に支配を守る人々は、さらにしたたかだ。忘却までの時間と、豊かさを保証するお金を武器にして、人々の心をじわりじわりと管理していった。やさしく、ひそかに、そして言葉巧みに。

自己保身と利益追求と人気取りばかり考えている為政者。重く苦い問題は伏せたままで、無難な不安や根拠のない情熱をことさらにかき立て、不満のガス抜きに終始するテレビや新聞。規則と将来で縛りつけてこどもたちをあらゆる可能性から目隠しをする管理教育。みんな嘘ばかり。そうして国家などという幻の共同体に捧げるために、私たちの血が求められるのだ。国家を守るために殺されることはあっても、国家があなた個人を守ってくれることなどないにもかかわらず。

自分たちのおかげで今の平和があるとうそぶく為政者たち。しかし歴史を冷静に眺めれば、私たちが享受している平和は、決してそんなふうに生まれたものではなかった。むしろ為政者たちは隙あらば戦争への道を開こうとしつづけてきた。

人気のある為政者にはなおのこと気をつけた方がよかろう。たとえば1999年はずいぶんひどい年だった。「地域振興券」「2000円札」という失政ばかりが目につく小渕恵三は、高い支持率を背景に、「団体規制法」「国旗・国歌法」「通信傍受法」「周辺事態法」「住民台帳法」と立て続けに呪いをかけて死んでいった。生前の評判では彼はすこぶる人柄が良かったらしい。

元防衛庁長官を父に持ち国民的アイドルとまでよばれた小泉純一郎も、やはり戦争が好きなようだ。「テロ特別措置法案」、「イラク復興支援対策特別措置法案」そして「武力攻撃事態法」「自衛隊法改正法」「国民保護法」。のちの歴史の本には今の時代がどう描かれるのだろうか。

これまでこの国で戦争を止めてきたのは、戦争が嫌で嫌で仕方がない人々の抵抗だった。ねばり強い抵抗だった。自分の命を守るものは国家ではなく平和だと信じていた人々が、道の前に立ちふさがっていたのだ。この先どんな時代がやってきても、そのことだけはしっかりと記憶しておかなくてはならないだろう。砂川の人々の闘いの記録は雄弁にそれを語っていた。

さて、もう一度今の時代を考える。私たちは無関心なのだろうか、私たちはうまくしつけられているのだろうか、それともだまされているのだろうか。十分な情報が与えられないまま無理矢理に事態が進んでいる?不況を背景に人々の不満が高まっている?バラバラに切り離された個人が、高まる不安に我慢できなくなって癒してくれるものや守ってくれるものをもとめている?それとも、いつの間にか戦争が好きになってしまった?

誰もが、できれば他人を殺したくないと思うし、殺されたくないと思うだろう。人を殺すほどの憎しみというのはもうよほどのものだ。戦争はどう控えめに考えても、未必の故意による殺人行為にちがいない。殺人をこれほど憎む私たちが、殺人のための訓練を兵士に施す。そんなとき私たちの感情はどう働いているのだろうか。

百人にもみたない小さな共同体の中で、よりよい生活を夢見ながら生きていた頃の私たちの祖先は、世界の輪郭と自分の感情の限界にうまくバランスがとれていたことだろう。よほどのことがあったとしても、やりどころのない感情に対してどう対処すればいいか知恵を出し合って判断できただろう。

たとえばある小さな共同体が、豚を盗んだうえ女を殺したという理由で、隣村に襲撃を仕掛けるとしよう。いきり立った男たちは隣村の首謀者の一人を殺す。私たちの感情はたぶんそのあたりで歯止めがかかる。すなわち溜飲を下げ満足感を得る。しかし、その歯止めは、共同体の大きさが1億人になると、別の意味を帯びてくる。一億の百分の一は、10万である。百人の共同体で一人の人間を殺そうとする同じ感情の高ぶりによって、一億人の共同体では10万人のジェノサイドを可能にしてしまう。

幻の巨大共同体に住むものは、テレビで一斉にブロードキャストされた情報によって、別の共同体のメンバーに対して許し難い感情を持ち、その感情の集合を、10万人というそれこそ想像もできない数の人々の死でをもって贖おうとするのだ。

戦争を肯定する人も、戦争に反対する人も、その動機となっているのは理性や思想による判断というよりは、むしろ個人のリアリティに根ざした感情であろう。砂川の人々がこれほどまでに抵抗したのは、彼らが自分の経験として戦争を知っていたからである。戦争にたいするリアリティは人によって違う。最近は連日の大本営発表にすっかり洗脳されて、今すぐにも北朝鮮が日本を攻めてくる、そんなリアリティを持った人もいるだろう。巨大な共同体においては、直接的な体験やうわさ話のかわりに、教育とメディアによってリアリティが形成されがちである。

では、いったいどんなリアリティが人々の心を動かすのだろう。最後にそれを考えてみたい。

強いか弱いか。「強いからこそ戦争を欲す」「強い方に従う」。合理的に考えれば至極まっとうな判断のような気がする。しかし人間の心はそれほど単純ではない。逆の場合もある。判官贔屓という言葉を出すまでもなく私たちは弱いものにむしろ感情移入する。

正しいか誤りか。「誤りを正すために戦争が必要だ」「平和こそ正しい道だ」。法や思想や宗教などを背景とした論理的な判断に依存するこの手のリアリティは、案外感情に作用する力が弱いように感じる。緊迫した闘いの現場においては、正当性など建前にすぎないことを見抜かれてしまう。しかも法は常に権力をもつ多数者によって作られるのだ。

損か得か。「ここでしっぺ返しをしないと損をする」。やられたからやりかえす、これも損得勘定だ。おおかたにおいて潜在的な判断であり、当事者はそれをあからさまにされることを嫌うが、無意識のうちに感情に作用することが多い。そして当事者と非当事者ではリアリティの温度差がもっとも大きいファクターである。

誠実か卑怯か。「やりかたが汚い」。そう判断する根拠は必ずしも明確ではない。なにをもって誠実とするか、それは人類学的な大きな謎である。しかしこれこそ人々の感情をかき立てるのにもっとも有効なリアリティと考える。さらに非当事者にたいする影響力も大きい。たしかに、その基準は時代や状況によって常に再確認されながら形成される曖昧なものだが、それでも私たちは誠実さを侮れない。

弱い少数者が強い権力者に異議申し立てをするとき、正義や悪、得や損という次元で闘ったとしてもそれは相手の思うつぼかもしれない。正悪や損得という対立軸は暴力をエスカレートさせ、結果的に最大多数の強者に利することが多いからである。

誠実さ。ここでいう誠実さとは特定の共同体に対する忠誠心ではなく、世界と自分の生き方に対する誠実さである。世界を裏切らないこと。自分を裏切らないこと。目的と手段を切り離さないこと。そうして、泣きながら笑いながら誠実に抵抗する。死んでもいけない。殺してもいけない。こんな押しくらまんじゅうのような抵抗を、強者は嗤うだろう。しかし、これほど怖いものがあるだろうか。それはけっして負け犬の思想でもなく日和見の思想でもなく、ただ一人で巨大な敵に勝つための唯一の砦なのだと考える。

【文献】

「心に杭は打たれない-いま語りつぐ基地・砂川物語 」 ドラゴンの会 /国土社 2001/12 \1,400

「砂川闘争の記録写真集」星紀市 /けやき出版(立川) 1996/05 \2,913

「 戦争プロパガンダ10の法則」 アンヌ・モレリ/永田千奈 /草思社 2002/03 \1,500

「人が人を殺すとき-進化でその謎をとく」 マ−ティン・デイリ−/マ−ゴ・ウィルソン /新思索社 1999/11 \4,800

「人はなぜ殺すか-狩猟仮説と動物観の文明史」 マット・カ−トミル /内田亮子 /新曜社 1995/12 \3,800

「〈癒し〉のナショナリズム-草の根保守運動の実証研究 」 小熊英二/上野陽子 /慶応義塾大学出版会 2003/05 \1,800


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