【狂107】消耗品としての男

95/9/28

■論評

「男らしさの人類学」
デイビット・ギルモア
春秋社

「女の国の門」
シェリ・S・テッパー
ハヤカワ文庫

■精神病者の犯罪率は、そうでない人の犯罪率に比べて高いという風説がある。この風説をもとに「精神病者は犯罪を犯す危険性が高いのだから、万が一に備えて、なんらかの形できちんと管理(監視)すべきである」という主張をときどき聞く。

■上のような論理がまかり通るのなら、次のような論理も当然なりたつはずである。すなわち「男性は女性に比べて犯罪を犯す危険性が高いのだから、万が一に備えて、なんらかの形できちんと管理(監視)すべきである」

■おおかたの予想に反して、精神病者の犯罪率はそれ以外の人と比べて決して高くはない、むしろ低いのである。たまたま犯罪者が精神を病んでいる場合に話題になりやすいため、こうした風説はまことしやかに流布してしまう。

■しかし、男性が女性に比べて犯罪率が高いというのは、残念なことに事実である。こと凶悪犯に関しては、圧倒的に男性の数字が高い。

■犯罪というのはおおむね社会的な問題である場合が多いので、男性の犯罪率の高さも、社会的行動の頻度に関係があるとも考えられる。だが一方で、「男」という生物学的な特質に、こうした原因があるという見方も否定できない。つまり、男は生まれながらにして犯罪者の気質を持っているというのである。

■社会生物学的な考え方では、一個体のメスは一個体のオスより重要度が高い。一つの卵と無数の精子の比喩を思い浮かべていただければ、話は分かりやすいと思うが、子孫を残すという仕事においては、オスはしばしば消耗品の扱いを受けるのである。これを裏がえしていえば、一個体のオスはたくさんのメスに子孫を残すことができるが、一個体のメスが残せる子孫の数はかぎられている、ということになる。自然界はそれほど多くのオスを要求してはいないのである。

■アダムとイブの伝説とは逆に、発生学的には男は女から作られる。女性の原型を持つ胎児が、男性ホルモンのシャワーを受けることにより、体内の器官を変形させ男性の体に作り替えられる。したがって、成長の際のトラブルは男の胎児の方が高い。乳幼児においても男の子の体が女の子に比べて弱い理由のひとつには、こうした負担に原因があるといわれている。

■生命の歴史を継続させていくために大切に作られている女性の体に対して、男性は「下手な鉄砲も数打ちゃあたる」的なリスクを、生まれながらに背負わされているのだ。(もちろんこの場合、いくつかは「むだだま」に終わるのである)

■さて、フェミニズム論も最近ではずいぶんと多様化し、かつて語られていたような女性性ばかりではなく、男性のジェンダーがしばしばとりざたされている。前ふりが長くなってしまったが、デイビット・ギルモア「男らしさの人類学」もそうした論調をくむものである。世界各地の人類学の研究の成果をもとに、「さまざまな文化の中で人々はどのようにして男性性(男らしさ)というものを認識し体得していくのか?」という問題を深く掘り下げている。

■これがなかなかおもしろいのだ。しかも泣かせる。ヒトの男性たちが「真の男」「本当の男」になるために、いかに大変なことをしているのか。体系的に並べられたいくつかの事例は、いわゆる男性原理にたいする痛烈な皮肉とも受けとれる。ただでさえリスクを背負って「生まれ」た男性たちは、社会的な要請から、数々の試練をへて真の男に「作られ」なければならないのである。

■私はこの本を読みながら、岸和田の「だんじり祭り」や諏訪の「御柱祭り」を、思い出していた。自覚しているいないに関わらず(おそらくほとんどの場合自覚していないのだろうが)、男たちは「かっこよさの」ために命を投げ出すこともいとわない。たしかに「こういうバカな生き方ができるからこそ、男は女にできないことを可能にしてきたし、勇敢かつ有能なのである」といういいぐさはあったっている面もあるだろう。しかし、なにをいおうと自己満足の感をぬぐいされない。客観的に見れば犬死にである。なにが悲しくて崖か落とされる丸太に乗らなくてはいけないのだろうか。

■シェリ・S・テッパーのえがく「女の国の門」の世界はもっと壮絶である。これは、核戦争後の近未来の世界を想定したSF小説である。先日の【狂電】で書いたできのわるい社会生物学小説(マンガ)にくらべると、えがかれている世界観には圧倒的なリアリティがあり恐ろしくもおもしろい。

■その世界では、地球上にいくつかの都市が残り、女たちがその都市ごとに政治をおこなっている。男の子は5歳になると「戦士の息子の門」を通って城壁の外にある都市の守備軍に参加し、15歳になるまで徹底的に男の名誉とはなにかを教えられ、勇敢な戦士として鍛えられる。そして、15歳の時、男たちは大きな選択を迫られる。このまま守備軍に残り勇敢な戦士としての名誉をほしいままにするか、「女の国の門」をくぐって城壁の中にもどり下僕者となるかである。戦士たちは毎年の謝肉祭の期間には、城内にはいり好きな女と寝ることができる。一方、下僕者は戦士や女たちの侮蔑をうけて生きるのである。

■都市では、食料などの生産的な仕事のほとんどは女性たちが受け持ち、戦士たちはときどき勃発する都市間の戦争のために、もっぱら軍事訓練にいそしんでいる。表面的には、男も女もこれでうまくやっている。しかし、この社会のシステムには大きな秘密がかくされていた。そして、その秘密を握っているのが、核戦争前の知識を独占している「評議員」の女たちであった。

■これ以上は書かないでおいたほうがいいだろう。定価700円の文庫本である。ひまなら買って読んでほしい。

■蛇足ながら、この小説が提示しているとても斬新な世界観について、ちょっとだけ解説をくわえておきたい。われわれにとっては常識である一夫一妻型の社会は、生物学的に見て必ずしも女性にとって都合のよい社会であるとはいえない。女性にして見れば、かぎりのある自分の子供には、できるだけすぐれた男の遺伝子をあたえたほうがよい。一夫一妻でひとりの女性が特定の男を独占するのは、女性全体から見れば不利益につながる(もっともこの議論では父性による養育と相続の問題は考えていないが)。

■一方、一夫多妻社会は男にとっては地獄である。ちょっと考えてみればわかることだが、特定の男が多くの女を独占すればするほど、まったく配偶者をもてない男の数が増えていくのである。こうした社会ではより多くの男が配偶者を持たないまま死んでいくことになる。

■不思議なことに「一夫多妻は男の天国」とか「一夫多妻は女の地獄」といった、まったく事実にはんする言説が、われわれの社会ではまかりとおっている。「女の国の門」を読んで思ったのだが、この常識の陰には、世の男性たちの情報操作による陰謀のにおいが感じられる。どうでもいいけど。


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