【狂125】メディアとトンデモ世界

96/1/22

■【狂124】でみなさまに、B型のRhマイナスの血液を必要としている人がいるという、メールをまわしましたが、そのご、別のかたから下記のようなメールをいただきました

■この「B型のRhマイナスの血液を必要としている人がいる」というニュースは各種のメーリングリストにものったようで、複数の経路で話が入ってきました。どう処理すればよいか迷ったのですが、期限が限られていることもあり、みなさまに配信しました。

■しかし、じつのところ【狂電】をだしたあとも、私自身どうもすっきりしない部分がありました。メールを使ってこの手の情報を流すのが果たして適切かどうか、という問題がひとつ。「いかにも」という感じの内容の真偽にかんする疑念が、もうひとつです。

■電子メールというメディアの扱い方を考えないと、この手の情報が無批判にたれ流されることになりかねません。いえいえ、たれ流されるのはよいのです。それは情報の宿命です。問題はたれ流す側にまわるときの「みきわめ」です。これは同時に、情報の受け手としての「みきわめ」であるといってもかまいません。みなさんはこのニュースをどう受けとめましたか?

■さて、今日の話は『”子”のつく名前の女の子は頭がいい』という本についてです。ちかごろちょっと話題の本です。わたしは、またぞろ(この表現ってゴキブリを連想させていいね)トンデモ本の新手がでたかと、この本を手にとったのですが、なかなかおもしろい内容でした。

『”子”のつく名前の女の子は頭がいい』
金原 克範
洋泉社(「トンデモ本の世界」を出している出版社であります)
ISDN4-89691-188-1    1800円

■この本のタイトルは、話題性をだすための戦略がわざとらしくて、それだけで、きわもの扱いされそうなのですが、著者がいいわけをしているように、ほんとうは『ヤマトナデシコはなぜ消えたか』にしたかっようです(あんまりかわらん気もするが)。しかしなかみは、とてもよくできたメディア批判の論攷です。

■簡単に内容を説明します。

●1955年あたりをさかいに女の子の名前に「子」がつく割合(この本ではCNrate とよんでいる)が急速に減少してきた。著者は、おもにTVなどのメディアに登場する「子」がつく名前の割合を分析し、世間で「子」がつく名前が減った原因をそれらのメディアのもたらす情報(たとえばアイドル歌手やアニメの主人公の名前とか)にあるとかんがえる。

●そして、「子」という名前が減っていく移行期において、いちはやく自分の娘に「子」をつけなくなった両親をメディア一世とよぶ。

●1984年以降の高校受験のデータを統計的に処理し、メディア一世から産まれた子(すなわち子がつかない名前を持つ子)の成績が、名前に「子」がつく子の成績に較べて低い傾向にあることを明らかにする。

●さらに、雑誌の投書欄などから、「名前に子がつく女の子」と「名前に子がつかない女の子」では、読む雑誌のタイプがことなっていることを指摘する。著者は、ファッション誌などをよくこのむ前者を「ヤマトナデシコ」タイプ、告白誌などをこのむ後者を「シンデレラタイプ」と命名する。そして、「ヤマトナデシコ」タイプと「シンデレラ」タイプでは、マスコミが流す情報に対する受けとめかたがことなり、前者は情報を自分将来や実生活にいかす方向に、後者は情報の中のフィクション性を楽しむ方向に利用しているのだという。

●いわば、「ヤマトナデシコ」タイプはリアリストであり、「シンデレラ」タイプはロマンチストである。最近になって、「シンデレラ」タイプの女の子たちが、思春期のおわりにさしかかり、現実世界とあいだにさまざまな不適応をおこしているのだと、著者は考える。そして、その根本的な原因は彼女たちに自身ではなく、彼女たち「メディア二世」を育てた「メディア一世」のコミュニケーション能力の欠陥にあるという。根は深いのである。

■ちょっと、ながくなってしまいましたね。『”子”のつく名前の女の子は頭がいい』なんてタイトルだから、一知半解して自分の娘の名前に子をつける親がふえちゃうかもしれません。でも、そういう人ってもろにメディア世界にはまってますね。将来は逆の現象がおきちゃうかもしれません。

■たまたま、ここで取りあげられていた調査対象が女の子だったけれども、「メディア二世」の現象は、男の子にもかなり浸透しているはずで、たとえば「トンデモ本」が支持される風潮とも共通するんじゃないかな、なんて思いました。

■なかなかの力作で、よんでいて共感できる部分がたくさんありました。わたし自身、子がつかない名前の娘をもっているわけですが、彼女をとりまく環境はなかなかにやっかいです。

■たとえば、わたしはマッドォナルヅ(マクドナルド)とディズニラァン(デズニーランド)が非常に嫌いであるにもかかわらず、娘のまわりにはいつのまにかミッキーマウスのおもちゃなどが進出してきております。これは第三者がわれわれにくださるものがほとんどで(喜んでいただいておきながら文句をいう筋合いではないのですが)、いつのまにか、まだ一歳の娘は「ミッキーさん」(京都の人はたいていのものに「さん」をつける)などという言葉を覚えてしまっていたりするのです(わたしがそれを「ネズミ」とよんでいたにもかかわらずだ)。

■正直なところ、暴力的なものに犯されている感じがしてとても不快です。子どもを全面におしだすマッドォナルヅの宣伝もやりかたがきたないと思う。でも、どうやら世間の人の多くはそうは思わないようです。想像以上に、マスメディアのたれ流す情報をすなおに受け入れているようです。わたしは半分シャレだと思っていたのだが、ディズニラァンが本当に好きな人ってけっこう多いみたいで、悪口をいっていると急に気まずくなったりします(割合としては創価学会の学会員くらいいるんじゃないかな、ははは、狂電読者にもいるよなきっと)。

■娘がこのままもう少し大きくなり「セーラームーン」などといいだしたら、わたしは責任をとって、娘ともども玄界灘に入水心中します。「生まれた時代が悪いのか、こんなわたしが悪いのか」てなもんです。今はそうならないことを祈るばかりです。

■またしても「親ばか」方面に話がながれていますね。あかん、あかん。ところで、この「子のつく女の子」の本って著者の博士論文になる予定だそうです。敏感なかたはお気づきかもしれませんが、今回の狂電がだらだらと長いのは、わたしがあからさまに自分の博士論文書きから逃避しているためです。えーん、時間がたりねえ。


next home back
[CopyRight] Takekawa Daisuke : Kyojin Shinbun & DDT-soft