【狂128】「わかる」とはなにか・その1

96/2/15

■これから数回にわたって、先日の最終ゼミの報告をします。ゼミに参加されてすでに内容を知っているかたはごめんなさい。連載にあわせて、ご批判など受けたく思います。

【フィールドワークでわかること】マエラシというフィールド

■フィールドにいるといつも不思議なことがある。わたしとはじめてであった相手が、その時までほとんど経験を共有していないにも関わらず、少なくとも表面的には(実際はかなりのところまで)わかりあえてしまうという現象である。

■日本にいるときのおこなってきた他人にたいする類型化が、ソロモンの人にもあてはめられると感じるとき(「あいつに似てるな」とか、「うん、わかるわかる」とか)、わたしはそこでいったいどんな作業をしているのだろうか。

■自己という概念から拡張される(独我論的な世界における)の他者性は、絶望的な理解不能のうえにかろうじて存在している。われわれの認識の根拠が個に帰着することは、だれも否定できないのに、現実的な世界で実際におこなわれている作業を考えると、必ずしもそれだけでは十分な説明とはいえない。

■われわれは、個であるにもかかわらず(なぜか)その外部である他者をただちに了解する能力を持っている。そして、相手が人間であるという一点で、おそらく相手もわたしを了解している、と仮定できる。

■われわれはサルの行動を了解する。われわれは動物の行動を了解する。われわれは石を了解する。われわれは世界を了解する。

■ここでいう了解とは科学的理解を意味するものではない。大ざっぱにいえば、いっぱんにはむしろ非科学的といわれる擬人的な理解をさしている。ネコ好きはネコを人間であると主張するかもしれないし、イルカ好きはイルカと心が通じたという。石の言葉がわかる人もいれば、星と語る(これは比喩はなく本当に語るのだ!)人もいる。

■そもそも人間は、他者(世界・外部・自己以外のすべて)にたいし、そういう了解のしかたを可能とする生物である。もっと極論すれば、人間は他者に対してそういう了解しかできないのかもしれない。たとえば、ニホンザルが優劣を前提とした出会いかたしかできないように。

■そしてさらに、はじめの話にもどっていえば、人の出会いの現場でおきていることは、相互的な理解ではなく。むしろ、双方向的なふたつの理解がひとつの場所で同時におこなわれているとは考えられないだろうか。人は出会ったときから互いに(別々に)相手が人であること了解するのである。そこが、人類を研究対象とするところの、おもしろい点であると同時に、やっかいな点でもある。

■さて、さきにお配りしたマエラシの話(【狂電】27〜35)は、文中のわたし(と思われる人物)の記述も含めて、ひとつのフィールドであると考えてほしい。このできの悪い物語を読んで、おそらくみなさんはなんらかの「わかりかた(理解)」をしたはずである。今日の話ではマエラシの話をそのまま、まな板にあげることはしない。むしろあれを読んだときにみなさんが持ったであろう「理解」のほうを問題にしたい。

■すでに、あの話を読んだ人のなんにんかの、典型的な反応は以下のふたつのタイプに分類された。ひとつは、この話がわたしの創作であるかどうかを気にするタイプである(そして創作であるといえば納得し、「本当の話」であるといえば胡散臭そうに苦笑する)。もうひとつは、この話の中に埋め込まれた、構造(現実・物語・村の境界・マージナルなわたし・媒介者としてのオイウ老人などなど)を図示してみせ、そこにみられる美しさ(あるいはわざとらしさ)を解説するタイプである。


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