【狂131】わかるとはなにか・その4

96/2/20

【社会行動・社会システムと個体】構造主義批判

■個体は社会を理解して、社会的行動をしているのだろうか。社会が個のある行動を規定しているということを、どのように証明するのだろうか。わたしたちが世界をわかっているのは社会になにかを教えられたからなのだろうか?

■生物は個体に依存した一定のルールで動いていても、それがたまたま社会的行動に見えることがある(たとえば、アリのえさ運びのシミュレーション)。世界を理解するのは個体である、その個体が集まって偶然に美しい秩序をつくっていたとしても、その美しい秩序によって彼らの行動を説明すのは、本末転倒ではなかろうか(美しい秩序を語ること自体には異論はないが)。

■たとえば、ニホンザルのメスの順位は血縁と生まれた順番で決まることがわかったとして、それを、ある特定のメスがある順位におさまったことの説明に使うことは、できるだろうか。たぶん、この特定のメスは自分の血縁と生まれた順番を理解したうえで、その順位におさまったのではないだろう。また、ほかのメスがこの特定のメスの血縁と生まれた順番を理解してしかるべき順位をあたえたわけでもないはずだ。どのメスも順位が決まるシステムを理解しているわけではない。語りうるのは順位を決定する社会ではなく、あるメスがたまたま血縁のなかで生まれたという事実から生じる(生じざるをえない)個体の行動である。そして、それがたまたま順位制のような現象としてわれわれの目に映るのである。

【個体識別が見つけたもの】サル学の未来

■サルの研究からヒトを理解しようとする試みは、両者の生物学的な進化の流れからみても、まったく順当な方法である。そしてこれは当然「サルもまた、ある程度はヒトのように世界を理解しているはずだ」という仮説に通じる。

■わたしは、個体識別という方法論の発明は、サル学の歴史において、きわめて重要なものであったと考える。個体識別法は、サルの個体を人間がその目で識別できるという驚き(これはサル学者以外にはいまでも驚きである)とともに、サル自身も個体識別をしているはずだという仮説を確信にかえることになった。

■初期のサル学が、「サルがどのようなまなざし持っているか」という問題に非常に近いところから出発したにもかかわらず、最近のストイックな生物学者(サル学者)はかたくなに(観察者としての)ヒトのまなざしに固執したがっているように見える。

■人類学者にとって、相手のまなざしにたつということはさけては通れない前提である。その前提と、はじめに述べた人間特有の不可思議な了解によって、人類学者は研究を進める(進めざるをえない)。この方法論は、客観主義という立場からみればいかにもずさんなものであるが、だからといって決して無謀な試みではない。

■サルのようにサルを理解するサル学者はいないのだろうか。

■たとえば、最近のチンパンジーの話に、でてきた味にかんする嗜好の調査は、とても興味深い試みあった。なんらかのうまい方法論(個体識別のような)が確立すれば、「はたしてヒトはチンパンジーを(先ほどのステレオグラムの後者の理解のような意味で)わかりうるのか」、あるいは「チンパンジーが彼ら自身どこまで「わかった生活」をしているのか」を、明らかする手がかりとなるのかもしれない。


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