テレビ局が村にきた

ファナレイの村に日本のテレビ局の取材が入った。今回のぼくの滞在中に3人のテレビスタッフが村にやってきた。実質的にぼくが連れてきたことになってしまったのだが、正直なところ最後の最後まで複雑な気持ちだった。

イルカ漁の取材に関しては、ホームページを読んだ人からの問い合わせも多く、論文やエッセイを書いて以来、これまでいくつかのテレビ局やフイルム会社から打診があった。

しかし、1年のうちに3ヶ月とシーズンが限られており、そのあいだずっと張り込んで取材しても、せいぜい数回しか漁の成功が期待できないこと(たとえば99年には4回しかイルカをとることができなかった)、船は2週間に一度しかかよっておらず、宿泊施設はもちろんのこと電気も水道もない村に滞在することの難しさなど、現地の状況を説明するとたいていそれ以上の問い合わせはこなくなった。

さらにソロモンという国では、国内の政治組織の階層構造がきわめて弱く、国や州の政府よりも村単位の決定や判断が最優先される。上意下達では物事が進まず、村内では政府の許可証はなんの効力も持たない。日本で言えばちょうど地方の豪族が群雄割拠したそんな時代をイメージするとわかりやすい。村の自治は尊重され、政治的な自立性が非常に高い。つまり日本から直接ソロモン政府と交渉して許可をとりつけても、最終的に村に入るまで本当に取材ができるかどうかわからないのである。

実際、5年ほど前にソロモンの国立博物館がイルカ漁の取材を申し入れたことがあった。しかし、村の会議は村に対するメリットがないということで却下している。村の人にとってイルカ漁はあくまでも自分たちのものであり、決して誰かに見せたり、それによってお金を得たりするためのものではないのである。このときの会議では、イルカ漁が博物館に記録されても村にとってはなんの意味もない、むしろよその村に技術がもれれば不利益をこうむるかもしれない。そんな理由で国の要請を断ったという。

さらに、こうした事情に加えて、この村を取材するにあたって最大の懸念は、ここでおこなわれていることが「イルカ」漁であるという点だ。近年の捕鯨を取り巻く国際的な状況から見て、取材するテレビ局にとっても、こうした題材をあつかうのはきわめてリスクが大きい。村におけるイルカ漁の意義を伝え、この漁の困難さと文化的な必要性を、よほどうまく表現しないと不要な誤解をまねく恐れがある。

確かにこの村のイルカ漁は壮大な漁であり、高度な技術を要する世界でもめずらしい伝統的な漁法である。しかし対象がイルカだというただ一点でやっかいな問題が派生するのだ。もし、これがカツオ漁だったらまったく問題はないだろう。はるかかなたの海の向こうから石の音だけをつかって追い込むカツオ漁。映像は漁の壮大さと興奮を余すところなく伝えることができるだろう。

村の言葉でイルカはキリオと呼ばれるが、会話の中ではイルカに対してしばしばイア(魚)という言葉が使われる。村の人にとってはイルカはまぎれもなく魚なのである。しかし、世界には「カツオ」と「イルカ」を区別し、全く違った存在だと思っている人は多い。極端な場合、あらゆる生き物の中からイルカだけを特別扱いする人もいる。こうした人々にも理解してもらうためには、イルカ漁の映像はさまざまな制限をうける。

このような多くの困難が予想されながら、ぼくが最終的に今回のイルカ漁の取材に協力しようと考えたのは、ディレクターである横島氏の熱心さと、会社が認めなければひとりでカメラを持ってでも行きたいという彼のフットワークを信頼したからである。日本で彼と打ち合わせをするうちに、さまざま状況を理解した上での取材であれば、もしかしたらうまくいくかもしれないと考えるようになった。そしてぼくが調査で村に滞在している時期にあわせて取材はおこなわれることになった。

ぼくは94年にイルカ漁の映像をホームビデオで撮影しているが、できればプロの手で記録したものがほしかったし、いずれそういう映像が撮られるのであれば、それに立ち会いたかった。タイミングとしては今回の調査期間はそのまたとない機会であった。ただ予算が非常に少なく放送がニュース枠を予定している点が気になった。取材期間も2週間である。しかし、とにかくできる限りのことはしてみようということで話はすすんだ。

政府サイドの撮影許可は横島氏がメンダナホテルのマネージャーの山縣さんの協力のもと進めていったが、問題は村サイドである。幸いなことにぼくが一足先にソロモンに到着すると、たまたま村のチーフのアウ氏が首都のホニアラに出てきていた。ぼくは彼にテレビ局のことを話し、撮影は可能だろうかと尋ねた。彼は「基本的には大丈夫だろうが、今や竹川も村のリーダー(ビッグマン)の一人なのだから、すべての判断はおまえにまかせる」と言った。ぼくは横島氏にこのことを伝え、チーフはたまたま翌日に出た臨時船で村の会議にメッセージをおくった。

ぼくとチーフの2人はその4日後の定期船で村に戻った。村ではすでに海を開き、イルカ漁が始まっていたが、天気はいっこうにすぐれなかった。いつものようにぼくは村人たちの近況を聞いてまわり旧交を暖めあった。そして翌日の夜には、昨年の滞在中に撮ったビデオの野外上映会がおこなわれた。発電機とビデオデッキとテレビは、10キロはなれた別の村から海を越えてはこびこまれた。子供も大人も、総勢で80人をゆうに越える村人たちがテレビを取り囲んだ。

こうした機会は村では年に一度あるかないかである。使い古されたビデオデッキの画像は決してよいものではなかったが、夜を徹して上映会は続いた。特に家族を映した日本の生活風景は評判がよかった。ぼくが撮ったビデオをみんなが喜んでくれるのはうれしくもあったし、決して意図したつもりはなかったが、こうして村の人たちが自分が映っているビデオを楽しめば、映像をとられることの抵抗感が多少うすれるのではないかと思った。

テレビ局のスタッフをどう扱うかについての村会議は、彼らが到着する前日の日曜日におこなわれることになった。村の男たちがすべて集まる会議にぼくは非常に緊張した。通常、こうした会議は数時間にわたっておこなわれ、さまざまな質疑が繰り返される。村の会議は、報告と承認ばかりの日本の会議よりはよっぽど建設的で、参加者のほとんどが発言し、深い議論に発展することが多い。このような村の会議は、もともとこの社会に伝統的に存在した合議システムを踏襲したものなのか、それとも植民地時代以降の産物なのかは不明であるが、おどろくほど「民主的」に運営されている。今では女性の参加もみとめられ、発言したい人はみな会議の小屋にやってくる。

これまでこうした会議になんども立ち会ったことがあるが、いつも基本的にぼくはオブザーバーであり、ときおりコメントを求められるくらいだった。しかし、今回はぼくがその会議の矢面に立つことになった。会議は夜の8時ごろに始まり、結局、夜半すぎまでつづいた。ピジン英語を駆使しながら、覚えきれないほどたくさんの質問に応答した。そのいくつかを挙げると以下の通りである。

Q:テレビクルーは漁の邪魔をしないか?

A:しない。漁での撮影はすべて事前に確認し漁師の指示に従う。

Q:テレビクルーは村の食べ物を食べられるか。特別な食べ物が必要か?

A:ぼくと同じように村の普通の食べ物で十分である。

Q:なぜ、このファナレイ村なのか?

A:彼らはぼくを通じてファナレイ村を知った。イルカ漁に興味がある。ぼくはメンバーの一人に会っている。よい人である。

Q:そのテレビ番組をソロモンの人も見られるのか?

A:残念ながら日本でしか放送しない。しかし出来上がったフィルムはカセットにして必ず村に送る。

Q:放映されるとほかのテレビ会社も村に来るようになるか?

A:わからない。そういう可能性はあるかもしれない。

Q:テレビに撮られることは我々にとってなんのメリットがあるか?

A:記録が残る。村の子供たちがいつまでも昔のことを見ることができる。日本中の人がソロモンやファナレイを知ることができる。

Q:その番組を白人たちがみてどう思うか。グリーンーピースは大丈夫か?

A:この件についてはぼくも心配している。日本人の反応は白人とは違うだろうが、番組ではイルカ漁の文化としての需要性や生活の背景まで正しく説明するように伝えてある。

非常に苦しい受け答えであったが。かれらの心配はぼくの心配でもあった。はたしてテレビが入ることは村にとってよいことなのか、悪いことなのか。どういう意味があるのか、なにを引き起こすのか。

Q:テレビ会社は映像を撮って金儲けをしている、われわれにお金を払うのか?

最後のほうに出てきたこの質問が一番厳しかった。当然、こういう意見があるだろうとは考えていたが、非常にデリケートな問題である。案の定、議論は紛糾し多数の参加者が意見を言い始めた。ぼくはこの時点でテレビ局側が撮影の謝礼をどのくらい用意しているのか知らなかった。いちおう村での常識的な範囲の謝礼の額と滞在にかかる金額をディレクターには伝えてあったが、あくまでもニュース枠なので予算は非常に厳しいという返事であった。

村がどういう形で彼らを受け入れるかによって、お金の話はずいぶん違ってくる。チーフのアウ氏がぼくにテレビ撮影のことを一任した時、最初に彼はお金のことは問題ではないといった。それでテレビ局側とは具体的な話はなにも決めずに村にきたのだ。ぼくは村の人々に、正直にお金のことはわからないと伝え、言葉に詰まっていると、チーフが助け舟を出してくれた。

イルカ漁はわれわれの生活である。われわれはテレビ局が来ても来なくてもイルカ漁に出るのであり、今はそのイルカ漁の季節である。イルカ漁はお金をもらってすることではない。イルカ漁こそ我々にとってお金(イルカの歯の伝統的貨幣)なのである。もしお金をもらってしまえば、たとえ天気が悪くても非常に疲れていても、われわれはイルカがとれるまで海に出なくてはならない。お金をもらうということはそういうことだ。イルカ漁では、われわれがわれわれのためにイルカ漁をすることが大事なのであり、もし誰かのため(お金のために)漁に出ることになれば、人々の間に間違った考えが入り込み、やがて漁は失敗するだろう。

「訪問」「帰省」「ビジネス」「招待」。決まった宿泊施設などない村に滞在する方法は、たぶんこの4つの選択しかない。ぼくは、はじめて村にきた時は訪問者として故チーフの家に滞在し、以来、帰省という形で通っている。特別な待遇を受けるわけではなく、ほかの村人と同じように、毎回決まった家に帰る。訪問や帰省は、家族の問題で共同体は関知しない。

しかしテレビ局の撮影となると、たとえ小人数であっても、村全体が関係する問題になる。受け入れる形としてはビジネスか招待しかありえなかった。ビジネスは仕事であり金銭にからむ契約が介在する。しかし村の会議の流れは、招待という方向にむかっていた。イルカ漁をビジネスにしてはならない、というチーフの考えと、はるばる遠くの国から竹川がはじめて連れてきた友人たちに、ぜひとも村の暮らしを楽しんでほしいという人々の意見が強かった。

そして、やがて会議は、具体的にどのように招待するかといううちあわせに移った。竹川に恥ずかしい思いをさせないようなもてなしをしよう、そんな意見が聞かれたが、この時点でぼくは、この歓迎がどれほどの待遇になるのかをよくわかっていなかった。

それを知ったのは、翌日、撮影スタッフを遠くの空港に迎えに行き、昼過ぎに村に帰りついた時だった。

われわれがのったボートが村に入る水路の口に差し掛かると、村からの使者がカヌーに乗って現れ、ボートをそこに待機させた。使者が戻ると今度は、きれいに着飾った女性たちが乗る2そうのカヌーが、櫂で船べりをたたき、リズムをとり、歌をうたいながらこちらに向かってくる。2そうのカヌーは、ボートのまわりを旋回し、ボートに並走する形で、村の浜まで誘導する。岸では黒い泥でボディペインティングをした子供たちがダンスをして迎えてくれる。やがて聖歌隊があわられ、われわれはそれに先導される形でチーフの家に着いた。

チーフは家族を別の家に移し、自分の家を3人のテレビクルーのために提供した。そしてテレビクルーは滞在中の2週間、毎晩違う家に夕食を招待されることになった。それぞれの家でのもてなしは、ぼくもこれまで見たこともないような豪勢なものだった。マッドクラブ、イセエビ、シャコガイ、魚、なかにはニワトリをわざわざつぶして出してくれた家もあった。

あとで聞けば、この待遇は村では最高のもてなしであり、司教や大臣クラスが村に立ち寄った際におこなわれたことがあるだけだという。テレビクルーは撮影の謝礼としていくらかのお金を用意していたが、チーフはこれを仕事に対する報酬としては受け取れないと言った。これはビジネスではなく招待なのだという。そして、お金はあくまでも贈り物(ギフト)であり、ミレニアムのお年玉として村の全家族にプレゼントしようということになった。結局、謝礼は村中で分配されひと家族につき300円から1500円程度の臨時収入となった。

チーフは最後まで、ガソリンやボートの使用料など必要な経費以外は受け取らないという姿勢だった。このけじめは、他人に物を要求することがタブーではないソロモン社会を知っているぼくにとっては驚くべきことであった。しかし、他人に何かを要求することと惜しみなく与えることというのは、この社会では両輪のようなものかもしれない。チーフは最後のパーティには自分のブタを殺した。いうまでもなくソロモン社会において、ブタはきわめて貴重な財産である。しかもこの日はイルカがとれたばかりだった。「イルカの肉だけでも十分です」と遠慮するわれわれにたいして、チーフは言った、「イルカは自然が与えてくれたものである、ブタは自分たちが一生懸命育てたものである、イルカとブタでは意味が違う」。

テレビクルーの一人は、「一生の間でこれほど歓迎されることはもうないかもしれない」と感激していたが、ぼくも同感である。しかし、とことん与えることによって生じる不均衡は、同時にはかりしれないプレッシャーを相手に与える。ぼくは村の人たちの「無償」の行為に感謝しながらも、村におけるぼくの役回りの変化を自覚せざるをえなかった。

たしかに、このもてなしは形式的には、テレビクルーに向けられた物である。ぼくは彼らとは一線を画し、今までどおり元チーフの家族とともに生活していた。そして撮影隊とはあくまで行動を別にし、一人で自分の調査をしたりむしろ村人と一緒に時間をつぶしていた。日本人のテレビクルーは当然、竹川は日本側の人間だと考えていたと思うが、実際には微妙な立場だった。彼らと違いぼくは村のことを知りすぎていたし、この歓迎の意味を考えるだけの知識も持っていた。

かつて、ぼくはチーフの子供のひとりとして村に置いてもらっていた。何か困ったことがあるとかならずチーフが助けてくれた。5年前にそのチーフが亡くなり、現在は彼の弟がその地位を引き継いでいるが、ぼくが滞在する家は、以前と同様に元チーフの家であり、ぼくはお客ではなく元チーフの家族の一員であった。人によっては「竹川は日本に住む長男だ」という人もいた。くしくも首都に滞在しているときに現チーフは「今や竹川も村のリーダー(ビッグマン)の一人なのだから」と話したが、これは単にお世辞やご機嫌とりではなかったのだ。

単に外国からめずらしいお客がきたというだけでは、村の人々はここまで豪勢なもてなしはしない。今回のテレビクルーの扱いは、ぼくを村のビッグマンのひとりとして確認することを意味していたのだと思う。つまりテレビクルーはビッグマンの客であった。ぼくはチーフの庇護の元で生活していた気楽な立場から、村に対しての責任をとる立場への転換を迫られていた。これはうれしいことでもあったが、他方で非常に怖くもあった。

さて、裏ではこうしたさまざまな思惑がありながら、しかし実際には村の人々とテレビクルーはきわめてよい関係をつくりながら撮影は続いた。若いテレビクルーたちはまず子供たちと仲良くなり、村の生活にとけこみ、さまざまな初体験に驚きながら、滞在を楽しんでいた。もし、なまじっか歳をとった、したり顔の取材班が、ビジネス感覚で撮影をしようと試みたら、おそらくさまざまな困難が生じただろう。ありがたいことに、テレビクルーたちは新鮮な体験を積極的に受け入れ、それに適応してくれた。

村人たちも彼らとの交流を楽しんだ。さよならパーティでは、たくさんの村人が集まり、歌や音楽を披露した。日本側も即席でKINバンドなるフォークグループを結成した。そして、出し物が終わると夜が明けるまでみなでダンスを楽しんだ。

肝心のイルカ漁の撮影も順調だった。テレビクルーが入る前日から天気は好転し、絶好の出漁日和となった。そして、滞在二日目にして、村人たちはイルカ漁に成功した。その後、ふたたび天候は悪化したが、いちおうイルカ漁のシーンをとり終えたクルーたちは、おちついて村の生活の撮影に取り組むことができた。

その後イルカ漁は、不漁や失敗を繰り返し、天候はなかなか回復せず、一時はもうチャンスはないかもしれないという雰囲気だった。しかし、こうした体験もイルカ漁の困難さとその成功を待ちわびる人々の切実な気持ちを知る、非常によい機会だったと思う。数多くの失敗の上にたった一度の成功がある。イルカ漁が成功したシーンからだけではわからない人々の思いに、テレビクルーたちも共感できたのではないだろうか。

村を離れる直前。もうあと2日しか撮影チャンスはないという日の朝に、2回目のイルカ漁は成功した。今回は待望のウヌブル(ハシナガイルカ)だった。しかも、撮影のために外洋に出ていたカメラマンのカヌーが一番最初にイルカの群れを発見し旗を揚げるという快挙だった。

イルカが獲れたという喜びの一方で、このときぼくを感動させたもうひとつのエピソードがあった。

イルカ漁のリーダーを務める村の長老サイラス氏は、限られたチャンスになんとしてもイルカ漁を成功させようと、朝早くにどのカヌーよりも遠くまで沖に出た。

しかし、この日イルカは比較的岸の近くで発見され、結局外洋に出ていたサイラス氏はそれに気づかずに、沖に取り残されてしまう。漁が成功し、すべてのカヌーが家に帰ってもサイラス氏のカヌーだけは沖から戻らなかった。「対岸の島まで行っちゃったんじゃないか」「ひとりで旗を立ててイルカを追い込んでるんじゃないか」そんな冗談を言う人もいた。

結局、正午近くになって、サイラス氏は暑い海から戻ってきた。自分がいない間にイルカが追い込まれたことを喜びながら、そして取り残されたことに少し照れながら、彼はぼくにこう語った。「今日はイルカを見つけるまで村に戻るつもりはなかったよ」

今回の取材は、ぼくが考える限りで最高のコンディションで進んだと思う。イルカ漁自体の刺激的な映像だけでなく、その背景にある村の生活、とくに村人ひとりひとりのキャラクターまで踏み込んだ撮影ができたと思う。たぶん、この村においては二度とこういう形での取材は難しいだろう。村の人は今回の撮影にとても満足している。そして作品ができあがるのを楽しみにしている。ディレクターの横島氏はすでに日本に戻り編集の作業にとりかかっているはずだ。ぜひとも、この貴重な記録を有効に生かしてほしい。

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