祝福された交換

交換は人間関係である。人間関係とは交換である。物の交換。言葉の交換。時間の交換。

異文化に接するということは、他者と交換するということである。しかし、高度に文化的できわめて理解が困難なこの交換という行為は、皮肉なことに、出会ったその日からいきなり要求される。フィールドワーカーは相手のことをなにも知らないうちに、交換をはじめなければならない。

フィールドワーカーが思い切って投げてみたボールは、しばしばとんでもない方向へ飛んでいく。時には、みなに笑われながらそのボールを自分で拾いに行くこともある。

たとえば、村で調査をするためにその手伝いをしてくれる人を探すとする。こちらとすれば、これは、あくまでも仕事の関係のつもりであるが、しかしそういう態度では決してうまくいかない。ぼくの仕事を手伝ってくれる人は、すぐに親しい友人に変わる。友人は仕事相手ではない。しかし彼はまちがいなくぼくのために時間を割いてくれている。さてそれではその友人たちにどうやってお礼をするか。

毎日、額を決めてお金を払う。我々の社会ではこれが普通であるが、これではいかにも野暮である。もともと交換や贈与の場には、さまざまな「意味」が派生する。交換とは単に物が移動するだけにとどまらない。彼らはわれわれ以上にその事実に敏感である。

だいたいの払うべきトータルの金額を頭に入れながら、適当な時に適当な金額を払う。この方がまだましである。注意したいのは、仕事をたくさんしたからたくさん渡すのではなく。仕事の量と一見関係なさそうに渡すのである。謝礼と仕事は関係ないのだという態度がむしろ大切なのである。

フィールドに滞在し、彼らのやり方を見ていくうちに、もっと有効な謝礼の渡し方に気づくようになる。たとえば5ドルの謝礼を渡すとする。それを直接相手に渡すのではなく、別の人が釣った魚を5ドルで買ってその魚を渡す。魚を売った人は予想外の現金収入に喜ぶし、友人も竹川からもらった魚だといってみなに見せて喜ぶ。しわくちゃの5ドル札を喜ぶことは難しいが、魚なら喜ぶことができるのである。この方法だと同じお金で少なくとも二人が喜ぶ。

遠くのローカルマーケットにいったついでに買ってきたビンロウの実をさりげなく渡す。竹川はわざわざマーケットに行ってビンロウを買ってきてくれた。このビンロウはただのビンロウではなく、ぼくがマーケットに行ったことまで付随したビンロウである。

われわれの社会ではお金を直接わたしたほうが喜ばれる。お金なら何でも買えるからと人は考える。しかしソロモンの村ではそうではない。渡した物よりも付随する意味のほうが大切にされる。物はできるだけ多くの手にかかわったほうがよいという。すなわち、この社会のおいて交換は祝福されている。

もうひとつ例をあげよう。今回、テレビの撮影スタッフがチーフに贈ったライターを、チーフは必要な者が好きな値段で買ってよいと宣言した。ひとりの男がそれを50ドルで買った。チーフはその50ドルをその日イルカを獲ってきた25人ほどの男たちにあたえた。男たちはくじ引きでそれを10人に分けた。10人はそれぞれ5ドルのタバコを買った。さらにタバコはそのあたりにいた男たち全員に分配された。

すなわち、ひとつのライターは、チーフを喜ばせ、それを手に入れた男を喜ばせ、漁にでた男たちを喜ばせ、くじに勝った者を喜ばせ、さらにタバコの分配を受けた男たちを喜ばせたのである。おそらくライターを買った男は、みなのタバコに火をつけてまわり、さらに多くの人々を喜ばせながら、やがてライターを使い尽くすだろう。

物の分配を、意識的にそして巧妙により多くの人を介する形でおこなおうとしていることがわかる。わざわざそうしているのである。この話の背景にはもうひとつ、物が蓄積されず蕩尽されるというソロモン社会の大きな特徴が隠れている。このような徹底した分配については、興味深い話がほかにもあるのだが、それはまた稿をあらためて書こうと思う。ここでは、ひとつの物にできるだけ多くの人がかかわるという事実、ソロモンにおける分配や贈与では人のかかわりが重要視されるという点を強調しておく。

逆に、われわれの社会の一般的な商取引では、仲介者は少なければ少ないほうがよいとされる。産地直送しかり。個人輸入しかり。ネットビジネスしかり。流通の合理化は物の流れから人のかかわりを排除する。

交換にお金が介在する社会では、関係性はその都度その都度、清算される。これが等価交換のしくみである。我々の社会では、物を売ったり買ったりするときにいちいち相手との関係を形成する必要はない。むしろ、こうした関係性は希薄であればあるほどよいとされている。近所の顔見知りのおばさんの店でおしゃべりをしながら野菜を買うよりも、スーパーマーケットで黙ってカゴに入れるほうがクールである。

交換が希薄な社会では、人間関係も希薄になる。交換が単純な社会では、人間関係も単純になる。これは単に濃い関係を求めるか薄い関係を求めるかという問題ではない。「意味」つまり人の関わりは、交換においては足かせである。濃い交換はわずらわしくて仕方がない。濃い交換では、相手のことを理解し信用し今後とも相手の関係を継続することが前提となる。しかし、貨幣が介在する交換では信用は貨幣が保証する、相手の人間性など問題ではない。交換の機会を飛躍的に増大させ、見知らぬ人どうしでも交換を可能にするには、交換全体の人の関わりをできるだけ薄くする必要がある。

むろん、われわれの社会でも祝福された交換がすべて死滅してしまったわけではない。たとえば、旅行から帰った友人がくれるお土産などがそうだ。まさか、お土産をもらった瞬間に、同額のお金をその友人に渡す人はいないだろう。友人は関係性をつくるためにお土産を買ってきたのに、その場で関係性が清算されては意味がないからだ。

村では多くの物がギフトとして交換される。いうまでもなく、このような「意味」が付随する交換は非常に難しい。むやみに交換や分配をすればいいというわけにはいかない。その社会において、もっともよいタイミングで、ふさわしい物を、できるだけ自然に交換すること。それができるようになると、あなたと彼は同時に祝福され、ようやく人間関係が見えてくる。

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