徹底した分配・ソロモン的知恵

ソロモンの村においてもっとも驚かされるのは、さまざまなものが蓄積されず、あっという間に使い尽くされてしまうことだろう。街で買った大瓶のミロ(ココア)をおみやげで持っていったことがある。子供たちは大喜びである。さぞかし大事に飲むのだろうなと思っていたら、次から次へ子供がやってきて、わずか2日で瓶を空にしてしまった。

1カートンのタバコも小一時間もたたないうちに分配され、一本単位で村中の男たちの間にいき渡る。まるで砂漠にまいた水のように、物は一瞬にして消えてなくなる。

いつも不思議に思うのだが、ソロモンのメラネシア社会では伝統的な保存食がない。干し魚すら作らない。(同じソロモンでもポリネシアの島々ではさまざまな保存食がある)。彼らはいつも魚がとれるから問題はないというが、実際には漁に出られない日もある。

イモは常に畑にあり、食べるときに掘りに行く。わずかな種イモを除いて収穫したイモを保存する場所はない。これは日本における米のありかたと非常に対照的だ。かつて日本では米は財や通貨の代わりであった。米は年に一度収穫され蔵に蓄えられた。米の生産量すなわち石高は政治的な力でもあった。しかしソロモンではイモは必要に応じて畑から収穫するにすぎない。食べられる以上の生産量はたんなる余剰である。

むろん、全く蓄積されないという訳ではない。正確には拡大再生産のために蓄積されないと言い直すべきだ。貝のお金は財産として大事に家の中にしまっておかれる。しかしこの財産も、結婚式や葬式などの大宴会の際に散財するために用意されているにすぎない。街で働く人が一年間蓄えたお金は、クリスマスと正月に蕩尽される。すべてのお金が惜しみなくお酒とタバコと食べ物に変わる情景は、まったく見事というよりほかない。

ピジン英語でASKというのは文字通り英語の「尋ねる」に相当する言葉であるが、多分に「物をねだる」という意味合いが強い。ソロモンでは、他人に物をこいねだることは一般的に決して悪いことではない。誰もがするごく当たり前の行為である。

「タバコをくれないか?」「薬はないか?」「日本で時計を買って送ってくれないか?」。物を人に頼んだりねだったりするときの感覚は、われわれ日本人とは著しくことなる。彼らの常識をよく知らないと、なにかを頼まれるたびに不快や重荷に感じたり、極端な場合、ソロモン人をさげすんでしまう。しかし、それは悲しい誤解である。

日本人がそばを食べるときに音を立てるように、アメリカ人がなにかというとすぐに自己主張するように、ソロモン人は堂々と物をねだる。

しかし彼らには彼らなりのルールがある。この社会ではたくさん持っている者から物をもらうことはきわめて自然なことである。たくさん持っている人は、持っていない人に当然与えるべきである。自分のために物を蓄えるのはむしろよくない事とされ、みなに分配しきちんと消費することが求められる。

ただし、尋ねた相手から「もうない」といわれたら、たとえそれが嘘とわかっていても二度と尋ねない。こういう嘘は少しも悪くないし、それ以上追求されることも決してない。どうせほとんど「だめもと」で尋ねているのである、たとえ相手が何もくれなくても気分は害さない。平然としている。

アスクはいつも露骨であるとは限らない。鈍感なわれわれが気づかないだけで、彼らの間では実にデリケートなアスクが飛び交っている。「マーケットに行ったか」という質問は「ビンロウはないか?」という意味である。「魚が獲れたか」という呼びかけは「魚をわけてくれ」となる。「たくさん獲れたよ」という返事は「わけてあげよう」と翻訳される。

「たくさん獲れた」といっているのに、すこしも分配しないとむしろ不審な顔をする。もし理由があってあげられないのであれば「少ししか獲れなかった」と返事をする。同様に「日本人はお金持ち?」と聞かれて正直に「お金持ちだよ」と答えるのは正しい受け答えではない。もし彼にお何もあげる気がないのなら「物価が高くてすぐになくなるから、実はすごく貧乏」と答えるべきである。

ソロモンで上手なコミュニケーションをするためには、何かを尋ねられること自体に、潜在的に分配の要求の可能性があると、気に留めておいたほうがよい。しかし、だからといって彼らをタカリの集団などとノイローゼになる必要もない。ほんの軽い気持ちでアスクすることがほとんどで、いちいち思いわずらうほど大した問題ではないのだ。多くの場合、軽く受け流せばそれでいい。

さて、われわれはついついねだられることばかり気にしてしまうが、この社会では、物をねだることだけではなく、物をあげることもタブーではない。ソロモンの人は実に頻繁にものをあげる。われわれは、お金を介在させた等価交換には慣れているが、意味もなく一方的に贈与をうける行為に慣れていない。だからいきなり物を渡されると最初は戸惑ってしまう。

人々がおしゃべりをしている場に、ぽんと投げ出されるタバコ。台所をのぞくと、むこうから差し出される焼けたイモ。たまたま声をかけただけなのに、小さな子供が一生懸命突いた魚を分けてくれたときなどは、罪悪感すら感じてしまう。これらは多くの場合、一方的な贈与で、見かえりの保証はどこにもない。

街から帰ってきた人が、村に着いたとたんに船の上から、ビールの缶をばらまいたことがあった。砂浜に打ち上げられるビールに子供や大人も群がり大騒ぎになる。初めてこの風景をみたとき、なんと品のないやりかたをするものだと思った。そのときは、お金を持っている町の人が、高みに立って、貧しい村人にビールを恵んであげているのだという、そんなイメージが頭にあった。

しかしそれは完全な誤解だった。このやり方こそもっとも小粋で、かっこいい分配の仕方だったのだ。恵みはまさに天から降ってくる。もったいぶって村人にひとつづつビールを渡すよりも、「さあもってけ泥棒」といわんばかりに、自分の手から物を放棄する瞬間こそが所有者の最後の輝くべき時で、その直後にビールは所有者を失うのだ。そして村人たちは誰のものでもないビールを拾う。

ワントックという言葉がある。WANTOK、ひとつの言葉を話すものたち。すなわち同族や親族、拡大家族の意味である。ワントックは互いに助け合うべきだという。しかし実際には、現金の稼ぎ手はホニアラで仕事をしている一握りの人間に限られており、通常その稼ぎがしらに一族全員がぶら下がるという構図ができあがる。すなわちソロモンでは、稼いだ人がその利益を独占することができないのである。個人的な蓄財はきれいさっぱり一族に分配されてしまう。ましてや余剰をもとにした拡大再生産(商売)なんてほとんど不可能である。

しかし一方で、ソロモンにおいてこれほど散財してもやっていけるのは、村落が豊かでいつでも食べものが保証されているからだとも考えられる。いざという時のために食料を確保しておく必要がないほど村は豊かである。最低限必要な食料はすべて無料で手に入る。村で食べていけなくなった人が町に出るという話はどこの国でもよく聞くが、おもしろいことにソロモンではその逆の現象が起きている。人々は食うに困ると街から村に戻る。ワントックという強力な扶助システムのおかげで、ソロモンには故郷を無くした都市生活者がいない。だから多くの発展途上国で見られるような、いき所のない都市生活者が集まるスラム街ができない。

ソロモンでは資本主義経済を動かすサイクルの決定的な何かが欠けている。極端な貧困がないために、蓄えなければならないという危機感がない。もし蓄えることにより余分の財をえれば、それを元に新しく投資できるのだが、蓄えない以上サイクルの出発点からくじかれてしまっている。

そして生計のユニットと個人主義の欠落。われわれが考える意味での労働の主体と受益者が必ずしも一致しない。利益は核家族をこえて共同体へ分配される。だから、お金は持っている人が分けてくれる、困っているとどこからか降ってくるという発想から抜け出せない。国レベルでも同じである。援助漬けのソロモン経済を憂い、自立を呼びかけても少しも説得力を持たない。もともと恵みは海の向こうから勝手にやってきたのだ。知ったことではない。お金が来るうちは喜んでその恩恵にあずかるし、こなくなればみなで村に戻るまでだ。海の向こうから幸せがやってくるという古いカーゴカルト信仰はいまだに死に絶えてはいない。

蓄積は悪である。蕩尽こそ善である。贈与の見かえりは永遠に延期されるため、投資ができない。この国では投資は文字通り資本を投げ捨てる以上の意味をもたない。彼らを資本主義経済に巻き込むためには、人々の心に「富を蓄えなければ生きていけない」という焦りをいだかせるべきだろう。この焦りは単なる幻想であってもよい。この幻想がなければ、人は生活に必要なもの以上の富を求めない。欲望をかきたて、勤勉を奨励し、個人主義を教え、富を偏在化させることによって、はじめてこの国で資本主義はドライブする。

たとえその結果ソロモン人が不幸になってもしかたがない。いや、そうした人たちに言わせればソロモンはすでに貧しく不幸な国なのだ。ほかの国はどんどん発展するのに、このままではいつまでたっても発展しない。国際的な競争社会の中で取り残され大変なことになるから、助けてあげなくてはならない。漁業援助、森林伐採、リゾート開発。

しかし、それはいったい誰のためなのだろうか。発展や進歩という甘いささやきはまるで、ソロモンという名前のおいしいパイをかじらせてくれと言っているかのように、ぼくには聞こえる。

ソロモンの将来にほかの道は残されていないのだろうか?執拗に散財を繰り返すこの国の知恵は、われわれの発想とは全く別の道のりを、教えてくれているようにも思うのだが。

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