手のひらの上のホウキ

[KOK 0077]

26 Dec 1997


先週の月曜日に三井の寿に新年用の新酒をもらいにいった。蔵では12月10日から今年のしぼりが始まっていた。10月に来たときはまだ閑散としていたのだが、今回は活気にあふれ、蔵の中は蒸し米ともろみのにおいが充満していた。仕込みがいそがしそうでもあるし、お酒だけ手に入れたらすぐに帰るつもりでいたのだが、「もうすこし見ていかない?」なんてさそわれて、ついつい長居してしまった。

酒の作業工程は通しで一ヶ月ほどのものが毎日並行してすすめられる。とくに仕込みにはいるまでの約2週間は、細かく手をかけなければならない。蔵では8人の人間が、それぞれの段階の作業を手際よくこなしていく。蒸米をしていたかと思えば、麹を扱い、あいてる時間で仕込みをおこない、一方ではすでに発酵をおえたもろみをしぼり出す。


だから造りが始まると日曜日だろうと正月だろうと休みはとれない。一日作業をあけることによって前後数週間にわたる作業すべてに影響をあたえてしまうのだ。

興味深く作業をみているたら「酒粕の袋詰めを手伝って」といわれた。きっちり重さを量りながら酒のしぼり粕を袋に詰めていく。酒粕の量から発酵の効率がわかるのだという。ここちよい緊張を感じながら仕事をする。ただ見学しているよりもこのほうがいい。

つづいて手を消毒して麹室(こうじむろ)に入った。麹は酒造りの基本、酒の味はほとんどここで決まるといっても過言ではない。これまでいろんな酒蔵を見学したが、造りの最中に麹室の中に入れてもらったのははじめてである。今回はそれでだけではなかった。蒸し米の放冷や、麹の盛り、出麹と枯らしなど杜氏さんのはからいで、さまざまな作業に参加させてもらった。

さらに翌日の蒸米のための吸水作業。バケツの中に水をくんでそれで、吸水がおわった米を軽く洗うという作業なのだが、秒刻みの手際が必要となる。わたしは作業を手伝いながら、8年ほど前にはじめてのフィールドで、沖縄で追込網の船にのせられた時のことをちょっとだけ思い出していた。あのとき調査をするためには、漁の一員として仕事を参加することが条件だった。わたしは本当に自分に追込漁なんかできるのだろうかという不安と、とんでもない失敗をやらかしたらどうしようという緊張でいっぱいだった。追込網は数ある沖縄の漁法のなかでももっと厳しいものだと聞いていた。

そうそう、5年前にソロモン諸島で、イルカを追い込むためにカヌーにのって沖に出たときも同じような気持ちだったな。こんなことまでする必要があるのだろうか?こんなところまできて何をしてるんだろう?何がしたいんだろう?なんて。しかし、まがりなりにもやればできてしまうのである。そしてうまく言葉では説明できぬが、やるのとやらないのでは見える世界がまったく違うのだ。参加すること、あるいは身体的な作業をとおして別の世界の人間関係に巻き込まれることの快感は、いちどはまると抜け出せなくなる、人類学の醍醐味だ。

ひととおり蔵を見たあと、たまたまその日、蔵にいあわせた酒税局の指導員とともに利き酒をした。利いたお酒は「明鏡止水(純米吟醸)」「美丈夫(吟醸)」「墨廼江(純米吟醸)」「初龜(純米吟醸)」「正雪(吟醸)」「瀧自慢(純米吟醸)」「黒龍(大吟醸)」「黒龍(純米吟醸)」それぞれ名の知れたお酒であるが、いくつかの酒に関して杜氏山下氏の評価は厳しかった。たしかに中にはだれでもわかるような出来の悪いものもあった。酒の質と値段ほどあてにならないものはない。最終的に自分の舌で判断するのが一番だ。

利き酒や鑑評会でお酒の味を採点するときは、基本的に減点法でおこなう。複数の造りの工程うち、ひとつでも失敗すると必ずそれが酒の味や香りに出てくるという。山下氏は、厳しい評価を下したいくつかの酒について、その味が造りのどこに問題があるのかを指摘した。また香りのサンプルをもとに、生老ね香・つわり香・ふくろ香・エステル香・老ね香など異臭のパターンを教えてくれた。

一番難しかったのはヤコマン(つけ香)である。これは異臭ではないが、吟醸香のエッセンスだけを別に集め、あとで酒に追加するというルール違反の手法である。有名な蔵でもこれをやっているところが多いという。しかし、山下氏の手にかかるとたちどころに化けの皮ははがれる、ヤコマンは香りのバランスがわるいのだという。

さて、実はここまでは、今回の話のまえふりにすぎない。山下氏のきわめて論理的な説明に、ほれぼれしながら酒造りの工程をみながら非常に印象に残ったことがある。それは、酒をつくるという作業では、生物という複雑系を制御するための独特なバランス感覚が要求されるということである。

たとえば酒の基本である麹は、蒸し米に生えるキコウジカビであるが、麹造りはただやみくもにこれを培養させればいいというものではない(以下、キコウジカビそのものをコウジ、カビとその培地である蒸し米を含めて麹の字をあてる)。コウジが蒸し米の表面の乾燥を避け米の中心部にくいこむように蒸し具合を調整し、カビにストレスをあたえることによってより多くのでんぷん分解酵素とブドウ糖を備蓄させ、胞子を作り出す前のもっともよいタイミングでそれを回収するのである。そのために、細やかな環境管理が必要となる。

しかもコウジカビ自身も成長しながら水分や温度をだす。環境の変化は、内外さまざまな要因がからむ。どんなに苦労しても同じ条件になるということはほとんどない。時には成長が早すぎたり、あるいはハゼコミが悪かったりする。生物を相手に仕事をする以上それはさけようのない宿命である。優れた杜氏とは、現在の進行状況を的確に把握し、問題が見つかれば、次の作業のどこでフィードバックできるかを知っている者である。

的確な判断というのが俗にいう「勘(かん)」の部分である。化学的に麹の中の酵素活性を分析する方法はあるにはあるが、結果をだすのに2時間かかるという。数分のうちに成長し変化するコウジを相手にそれでは困る。麹の色、におい手触りなど五感をフル起動させてに、コウジの成長の度合いを探るのである。

それに対して問題解決の手法が「技(わざ)」である。成長に関わるパラメーターは温度・湿度・胞子の密度などさまざまあるが、それを麹箱の指一本ほどのわずかな隙間、布のかけ具合、出麹までの時間のかけ方など可能なかぎりの技術をもちいて調節する。部屋の温度が高いとき、蒸し米のうえでさっと布を上下させるだけで表面の温度は0.5度さがるのだという。これら技の効果は経験と理論によって裏付けられる。

こうした勘と技によるフィードバックに支えられた恒常性(ホメオスタシス)こそ生物化学の真骨頂である。日本酒造りの世界では「環境条件の精度を高めれば良いお酒ができる」という近代工学的な発想は、限界がある。すべてを計算ずくで完全にコントロールするには、不確定で微量なパラメーターが多すぎるのだ。複雑系の世界では微量なパラメーターが思わぬはたらきをする。


ホウキを手のひらの上にさかさまに立ててバランスをとることをイメージしてほしい。極限まで緻密にホウキの重心を計算し、完全な傾きの手のひらにおけば、もしかしたらホウキは特に外から力を加えなくても立ちつづけるかも知れない。しかしそれではあまりにリスキーである。

ある程度アバウトでもいいからホウキの状態を常にフィードバックさせながら的確に手のひらを動かしたほうが、ゆれながらもホウキは安定する。しかも、熟練した業師であれば、ホウキの種類が変わってもたちどころに立てることができるだろうし、その場で安定させるだけでなくホウキを立てながら好きな場所に運ぶこともできる。

これはノイマン型コンピュータがもっとも不得意とする分野である。チェスでコンピューターが人間に勝ったといえども、それはしょせんあらゆる可能性を高速に計算する詳細さと緻密さのおかげであり、これまでのメカニカルな技術の延長線上にある勝利にすぎない。

人間の脳や生命世界ではそれとはちがった論理で動いているようだ。必ずしもすべての条件を完璧に把握していなくても、問題の判断とその解決は可能なのである。たとえば囲碁の名人は「石が重い」とか「すわりが悪い」とかいう言葉で状況を判断し(勘)、「模様をおもしろく作り」ながら手をすすめる(技)。こんなアバウトな言語を使う相手にコンピューターは手も足も出ない。論理の組立かたがちがうようだ。

そんなことを考えていたら、たまたま最新のSCIaS(朝日新聞社)にこんな記事をみかけた。「味と香りの『進化』まで仕掛けるファジィな杜氏コンピュータ」。簡単に要約すると、F(ファジー推論)による判断をNN(ニューラルネットワーク)で学習させGA(遺伝的アルゴリズム)を使った試行錯誤でフィードバックをくり返しながら、伝統の勘や技を電算システムにのせようという試みである。ちょっと要約がすぎたかな?

これはこれでとても興味深い試みだと思うが、わたしには人間の知識のほうがおもしろい。かつてわたしの論文が「漁法おたく」だと酷評されたことがある。当たってなくもないが違和感があった。本当に描きたかったのは技術そのものではなく技術の中に見られる独特な論理性(システム)である。不安定でいいかげんな自然を、いかに身体的な官能を駆使してコントロールするのか、人間の自然認識に関わる問題だとおもう。

今回の訪問でもっとも感動的だったのは、山廃の酒母(もと)の中に手をいれさせてもらった時だ(ところであの酒母きちんと育っただろうか?)。酒母樽の中心部は暖気(だき)樽を入れ暖め、周辺部には氷を巻いて冷やす。この樽の中の絶妙な温度勾配が還元菌や乳酸菌の最適な培養条件をつくり、そこでうまれた亜硝酸(うそかも?記憶あいまい)や乳酸が雑菌の繁殖をおさえる。さらに酵母菌の適温層ではアルコール発酵をさせないようにして菌の増殖をすすめる。麹の時と同様ここでも単純に菌を増殖させるのではなく、有用な物質をいかに効率よく取り出すかが求められる。

これらの温度を管理するのは人間の手だ。手のセンサーは絶対的な温度はともかく、相対的な温度差にはきわめて敏感だ。しかもすばやく全体を測ることができる。さらに温度調節のために酒母をかき混ぜる機能までついている。理論的な裏付けと、酒母の中に手をいれてはじめてわかる実感にわたしは完全に魅了された。


酒好きのわたしにとって、酒造りはいわば神聖なる行為である。自分でどぶろくやビールをつくるのとはまた違って、「本物の」酒造りは別格だ。ほんの数工程の下働きにすぎないのだけど、その「本物の」酒造りに参加できたわたしは、その日、自分でもおどろくほど幸せであった。そういえば昨年のクックでのぎっくり腰いらい本格的なフィールドワークからはなれているもんな。これを機に、吟醸の造りがもっとも忙しくなる2月から3月にかけて、一番下っ端の「はたらき」として蔵に通いたいと思った。少しだけかいま見た酒造りの世界はおもしろすぎた。問題はぎっくり腰だけである。

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Takekawa Daisuke