やさしさと同調性1

[KOK 0078]

21 Jan 1998


 よのなかを うしとやさしと おもえども

近頃の若者は・・・。なんていいだしたら要注意。「無理解な大人」の仲間入り。でもちょっと言ってみたくなることもある。そんな出来事が多いこの頃。文句はない、ただ、彼らがちょっとかわいそうな気がするのだ。大きなおせわかもしれないけど。

卒論が終わった。今年のゼミ生はふたりだった。そのうちのひとりA君の話。A君はいっけん気弱でおとなしい、人当たりのいい男だ。かといってきまじめなタイプではなく、どちらかというと、ちょっと軽いお調子者というかんじである。まあ、どこにでもいるような今時の若者である。

彼は、卒論のテーマとして小倉の北にある離島で、一人の老人のライフヒストリーを研究した。わたしはその過程もふくめ、ゼミをとおしてこの二年間、彼とつきあってきた。そんななかで、「どうして彼はこんなことをしてしまうのだろう?」と考えさせられる事件がしばしばおきた。

くりかえし断っておくが、だからといって彼個人にとりたてて問題があるといっているわけではない。彼はごくふつうの人で、彼と私のまわりにおきた事件も、まあ、ありがちな、ほんのささいなものである。しかし、あとで述べるが、これらの事件をめぐる彼の考え方には、ここ10年くらい私が気になっていたことに関係する重要な「何か」があった。そこで、今日のテーマは前回の「いじめと同調性」の続編「やさしさと同調性」である。

【事例1】
もっとも典型的な事件は、昨年の12月におきた。卒論の締め切りを一月中旬にひかえたA君にとって、大きな障壁は、ワープロ打ちであった。校正をすみやかにするために、わたしはA君に原稿をすべて電算化するように言ってあった。しかし、A君はキーボードをさわったこともない。

そこで、いったん紙に書いたものを同じゼミの二年生Bさんに打ってもらうことになった。手書きの原稿が完成したのが12月19日である。しかし、彼は論文を書くのが初めてである、事実関係があいまいだったり、表現に問題があったりで、そのまま入力できるレベルではなかった。原稿を受け取ったわたしは、その日のうちに大幅な校正をいれ、これをもういちど手で清書してから、Bさんに入力をたのむようにA君に指示した。

12月26日、Bさんから原稿の入力が終わったとの連絡を受ける。仕事を引き受けたものの、それほどタイピングになれているわけでもないBさんは、4日間ほどかかりきりで入力をしてくれたのだ。ところが、Bさんから直接受け取ったその原稿を見ると、19日に校正する前のままである。

Bさんは19日にA君から原稿を受け取ったが、そのご校正があったとは聞かなかったという。どういうことだろう?何かの手違いだろうか?わたしは年明け早々にA君に問いただすと、A君はこういった。

「先生に見てもらう前にBさんに、ワープロで打ってもらうようにたのんだんですよぅ、そのあと、先生からたくさん訂正されて、清書しなおしたんだけど、なんか、一生懸命入力してくれてるBさんに、途中でやめてっていいにくくて。なんか、悪いなぁって気がして」

「それで最後までだまってたわけ?」

「はい」

「でも、校正したの19日じゃない?次の日には、訂正があること伝えられたのに」

「はい。いわないけんなぁって思ってたんですけど。なんか、Bさんに悪い気がして」

ボツ原稿を最後まで入力させる方がよっぽど悪いと思うが、A君は自分なりに「気をつかって」いたのだと説明する。もちろんBさんは怒っていた。

【事例2】
1月12日、卒論提出の期限がせまり、原稿もほぼ完成に近づいたときに、私はA君にいちど調査協力者のC氏に見てもらうようにいった。A君は翌日原稿をC氏にわたし、C氏は事実関係の誤記について丁寧に訂正を入れ原稿を返してくれた。

ところが、その原稿にざっと目を通して私は驚いた。A君が島民から聞き取りをして書いた、C氏に関するちょっとした批判の部分が、乱暴に黒く塗りつぶされていたのだ。どういうことなのか私がA君にたずねると、彼はC氏に原稿をわたす前に自分で塗ったのだという。

「なんか、こういうこと書いてあると、C氏に悪い気がして。すごい、悩んだんですけどね、直前にばぁーっと消しました。あかんかったですかねぇ?」

私が読むに、批判といっても、親しい島民同士の冗談めかしたやりとりで、実際にはたいしたことではなかった。もちろん、たしかにこの部分は、論旨とはあまり関係なく、削除しても影響はない。

しかし、問題は、その気になれば読みとることが可能な、あからさまに黒く塗られた原稿である。これではかえって目立ってしまう。下手をすれば嫌がらせと受け取られても仕方がない。

「これは、まずいんじゃない?もし消すとしても、切り取るとかして、きちんと消しておかないと」

私の指摘に意外そうな顔をするA君。

「自分では気をつかったつもりなんですけどねぇ」

A君の説明を要約するとこうなる。つまり、全部完全に消してしまうのはせっかく校正してくれている先生に悪いし、かといってこのまま見せるとC氏に悪いし、さんざん考えたあげくのことなのだという。こんなやり方したらかえってC氏の気を悪くするかもしれないということは、私に指摘されて初めて気づいたという。

【事例3】
次の事例は、なんども起きたことだ。卒論の中間報告や論文の校正をしながら、わたしは彼にさまざまなアドバイスをした。しかしそれを次の機会に確かめると前のままのことがある。「どうしたのか」とたずねると。「大丈夫です、まだ書いてないけど、もうちゃんと調べました」と答える。ところがまた次の時も訂正されていない。きくと、「調べてあります」という。

数度のやりとりのうち私がついに「本当に調べたのか」と問いただすと、しどろもどろに彼は「調べてません」と答える。不思議なことに単なる数字の確認など、実際には嘘をつくほどのこともないささいなものが多い。はじめから「まだです」といったとしても、私は「最終稿までには確認しておくようにね」なんていう程度のものである。

しかし嘘をつかれるのは気持ちが悪い。そこで私は、ついついからかい気味に「A君はうそつきやなぁ」と言ってしまう。A君は曖昧に笑いながら立ち去る。

そういうやりとりがたびたび重なったある日、ついにA君はキレた。

「竹川先生は『うそつき、うそつき』というけれど。まあ、自分にそういう部分もあるかもしれんけど。べつに嘘をつきたくて言ってるわけじゃないんですよ。なんかね、先生にも気をつかって、その場をまるく納めようと思って、ついつい言ってしまうんですね。先生だってなんども『まだです』っていわれるよりは、そのほうがいいかなって思うんですよね。ほんとに、できるだけはやく調べるつもりはつもりだったんですよぅ」

しかし、ささいなことで簡単に「ばれる嘘」をつかなくてもよかろうものを。

「たぶん、ささいなことだから、まあ、いいかなって思って嘘ついちゃうんですよね。嘘がばれてるのも、自分でもわかってるんですけど、なんていうか、こんなこというとずうずうしいかもしれないけど、先生だって気をつかって気づかないふりしててくれてもいいと思うんです。どうせばれてるのに、なんで、事を荒立てるようにわざわざ『うそつき』なんていうのか。こんなふうにからかわれたのは小学校以来です。やっぱり、そういうのはちょっと傷つきますよ。いくら僕だって」

大人げないの私の方らしい。まるで「のれんにうでおし」のような彼との会話をくりかえしながら私はなんだかめまいがしてきた。とっても優しくて気の小さいA君を傷つけているのは私なのか?言ってることが逆じゃないのか?彼にまったく悪意がないことはよく伝わってくる。嘘をついてだまそうと思っているのでもないようだ。詭弁を弄して言い訳しているようにもみえない。

彼の行為は、私からみると、相手のことを考えずに自分を守ることに汲々としているようにさえ思えるのだが、むしろ彼は彼なりに気をつかって振る舞っているのだという。それが私に接する時に、いつも裏目にでるということらしい。言葉の端々に彼なりの一貫性を感じる事ができる。そういう意味では、たしかにA君は驚くほど素直である。表面的なひとあたりはとてもよい。私はA君との間に、よってたつ論理性・価値観の違いを感じた。しかし、その正体がなかなか見えてこない。

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Takekawa Daisuke