身体と自然にかかわる書評三つ

[KOK 0086]

01 Jun 1998


『自然の文化人類学』 松井健 東京大学出版会

人類学は実体と関係性の学問をこえて、「自然」と「身体」という泥沼の世界にむかおうとしている。そこには実体から演繹的に導き出されるべき「機能」もなければ、関係性の網の目の中で恣意的に現れるはずの「構造」もない。著者は、「自然」という言葉自体が文化的に規定されたひとつの標識すぎないという批判を慎重にかわしながら「自然の本源的優越性」という命題にわけいっていく。

「家畜」をうみだしたのは人間側だったのか動物側だったのか、ナツメヤシに依存して生活する人々の世界認識と彼らの社会はナツメヤシの生態にどれほど関係ぶかいか、コスモロジー(宇宙論)はいかに構築されるのか、そして、限りなく自由な知的作業であるはずのわれわれの「想像」が、なぜ現実の自然を模倣してしまうのかなど、フィールドワークにもとづく詳細な資料をもとに刺激的な論攷がつづく。

もちろん彼のこの立場は、すべての原因を「自然」に帰する還元主義では決してない。自然と文化の間の論理的関係性などこのさい問題ではないのだ。むしろ論理性の逸脱した身体世界において人間の本質をさぐろうという果敢な試みであると考えたい。

『身体の零度』 三浦雅士 講談社選書メチエ

われわれの身体は我々の物ではなく文化や社会の産物である。そして、近代は新しい自我を作り出すのと同時に、新しい身体を誕生させた。それが「身体の零度」である。いわゆる身体加工は、考えられているような「野蛮」な所作ではなく、むしろ「文明」こそがそれを再生産してきたという著者の指摘には説得力がある。そして均質化され表情を持たないひややかな近代的身体は、近代的自我の透明性との不気味な類似を感じさせる。

わたし竹川は「身体から逃れられない文化」の研究者であるが、この本で挙げられている「文化から逃れられない身体」の事例には多くの示唆をうけた。「こころ」が「からだ」に優越的であった近代を乗り越えるために、「わたしのからだ」とはなんであったかを検証する試みは、まだはじまったばかりである。

『無敵のハンディキャップ』 北島行徳 文藝春秋

これもまた身体の話である。障害者プロレスを企画した著者自身が、書き下ろした無敵のノンフィクションである。障害者とか健常者とかいう枠組みの無神経さにいらだちながらも、それぞれの立場から決して抜け出すことのできないわれわれ「日常者」に対して、著者は痛烈なカウンターパンチを浴びせる。

このごろボランティアとか福祉がはやっている。「こういう仕事は、けっしてきれい事ではできないよ」なんていわれながらも、なぜか巷ではやさしくて思いやりのある(と自分では信じている)善良な若者がこの仕事に志す。

矛盾している。彼らのやさしさ思いやりは貴重なものだと思うが、わたしはその力を信じない。戦うこと回避するやさしさだけでは、巧妙な枠組みから逃れることはできない。思いやりってなに?どっか楽観的すぎやしない?人は決して他人のことを理解できない、できるわけがない。このやりきれない絶望を知らぬ者に、わたしはなにも期待しない。

障害者が自らの身体をさらしてプロレス興行を始める、健常者が容赦なく不具の身体を打ちのめす、そしてそれを見つめる観客たちがいる。自分の身体で稼ぎを得ることは、まさにわれわれの誰もがこの社会でおこなっている正当ななりわいである。戦う彼らの前に良識はその無力さを露呈する。

身体を売り物にするその危うさを、よりよく生きたい、自分を表現したいという意志が乗り越えていく。勘違いしないでほしい。これは単なるきわもの話ではない、著者自身そしてプロレスに参加している者たちが、いかに生きるかを、悩み抜いてたどり着いたひとつの結論である。

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