小さな哲学者との存在論問答
[KOK 0171]
30 Jun 2001
■ハウスボートがゆっくり行き交う週末の午前、運河沿いの道を歩いていると、4歳の玄之介が突然うれしそうに言った。
『わかった!川は船が進むためにあるんだよ』
■それをきっかけに、二人の「なんのためにあるの問答」がはじまった。ぼくが、「△△はなんのためにあるの?」と問うと玄之介が『○○のため』と答える。
「じゃあ、道路はなんのためにあるの?」
『自動車が進むために決まってるじゃん。線路は電車が進むためと同じだよ。駅は電車が止まるためだよ。駅がないと電車に飛び乗らないといけないし、ずーっと走ってばっかりで、人間をみーんなひき殺しちゃうんだ』
「飛行機はなんのためにあるの?」
『国を越えるためだよ』
「犬はなんのためにいるの?」
『びっくりさせるためかな』
「カモはなんのためにいるの?」
『えっとね・・ヒナがかわいいため。それにパンのミミを食べるため』
「鳥はなんのためにいるの?」
『えっと、お金が足りなくて肉が買えないときに鳥を買うんだよ』
「太陽はなんのためにあるの?」
『朝がくるために決まってる』
「空はなんのためにあるの」
『空がないと青空が見えないじゃん』
「雲はなんのためにあるの?」
『雨を降らすため』
「じゃあ雨はなんのためにあるの?」
『木が育つためだよ』
「木はなんのためにいるの?」
『お花を咲かすため』
「花はなんのために咲くの?」
『実をならすためだよ』
「実はなんのためになるの?」
『食べるためだよ。でも、食べられない実は芽が出てまた木になるんだよ』
「石はなんのためにあるの?」
『煉瓦を作るためだよ』
「土はなんのためにあるの?」
『石のあいだをうめるためかな・・・粘土遊びのためかもしれない』
「犬のうんこはなんのためにあるの?」
『えーとね、うんこが出ないと犬のお腹が破裂しちゃうんだよ』
「柵はなんのためにあるの?」
『公園をかこうためだよ』
「塀はなんのためにあるの?」
『人間がはみ出さないためだよ』
■ふたりで道を歩きながら、目につくもの思いつくものを適当に問いかけるうち、デジャヴューのようにソロモンでの老呪術師との会話を思い出した。しかし、「石はなんのためにあるのか、そして、生きている石と死んだ石の違い」について語る呪術師の考えは玄之介ほど簡潔ではなく、えんえんと一時間にもわたるものだった。
「宇宙はなんのためにあるの?」
『宇宙飛行士がロケットで行くために決まってる』
「地球はなんのためにあるの?」
『世界をかこうためだよ』
「テントウムシはなんのためにいるの?」
『綺麗なためだよ』
「アリはなんのためにいるの?」
『うんーと、落としたものを食べるため』
「ケンカはなんのためにあるの?」
「えっとね・・・意地悪されたときにやり返すため」
「いやなことはなんのためにあるの?」
『うーん・・・・あばれんぼう(イギリスのパブによくいる酔っぱらいのこと)のためかな』
「あばれんぼうはなんのためにいるの?」
『あばれるために決まってるじゃん』
「おじいさんはなんのためにいるの?」
『生きられるため!人間も動物もみんな生きられるためにいるんだよ』
「赤ちゃんはなんのためにいるの?」
『人間になるためかな』
「おばけはなんのためにいるの?」
『人間をおどかすためね』
「ドラキュラはなんのためにいるの」
『血を吸うためなんだって』
「じゃあ大介はなんのためにいるの?」
『うーんと・・・散歩に行こうよって誘うためだな』(われわれはちょうどお昼ご飯の材料を買うために歩いていた)
「祐子はなんのためにいるの?」
『・・・家でお昼ご飯作るためかな』(彼の母は家で食材を待っている)
「葵はなんのためにいるの?」
『家でおもちゃで遊ぶため』(彼の姉の葵もさそったのだが、家で遊んでるといった)
「玄之介はなんのためにいるの?」
『だから、散歩するためなんだよ!』
「問題(なぞなぞや、こういう問いかけ)はなんのためにあるの?」
『びっくりさせておもしろがるため』
「なんのためでもないもの、ってある?」
『うーん・・うーん・・・えっと・・それは、お家かな』
「えっ!どうして?」
『だって、キャンピングカーでくらす人はお家ないじゃん』
■おそらく玄之介も、この先まだ長い人生の中で、何度も「自分はなんのために存在するのか」という問いを繰り返すことだろう。ぼくとしては、そんな時にもこの「散歩するため」というすてきな答えを心のどこかにずっと残しておいてほしいと思うのである。
■蛇足であるが、ここで彼の答えが決して単なる機能論的な説明になっていないという点に注目して欲しい。「なんのため」という問いの答えは、時に「なぜ」ということへの理由であったり、存在するための目的であったり、ある種の人間中心的な価値観であったりする。
■この「なんのためにあるの問答」は、他人の不思議な世界観をかいま見ることができるなかなか面白い遊びなので、年齢に関係なく身近に好奇心旺盛な哲学者がいる人は、ぜひいっしょに楽しんでみてはいかが?