クレーム社会

[KOK 0172]

06 Jul 2001


アメリカを評してしばしば訴訟社会と呼ぶならば、その背景にあるのはイギリスのクレーム社会であろう。話には聞いていたが、住んでみてあらためて「クレーム」という行為に対する考え方の違いを感じている。

日本語でクレームという言葉を使うときその語感の中に「苦情」や「文句」という否定的なニュアンスが色濃く含まれる気がする。

しかし、英語ではクレームという言葉の中にこうした否定的なニュアンスはほとんどみられない。辞書には「正当な権利の主張」とあるが、これまた日本語でそういってしまうと非常に厳しい印象を受ける、むしろもっと自然な語感で言えば、「意見をいう」「主張する」「言う」とあさっさり訳すのがより原義に近いだろうと思う。

そうしないと以下のような文章が訳せなくなってしまう。

Barcelona claims to have the greatest collection of Art Nouveau buildings of any city in Europe.

(バルセロナはヨーロッパの街のなかでも、もっともすばらしいアールヌーボ様式の建物のコレクションを持っていることを「主張」している≒といっている≒誇っている)

たとえばイギリスの日常で「クレーム」はこんな風に使われていた。

「学校の授業で来週から生命の誕生を教えます。そのさい胎児のビデオを子供たちに見せますが、宗教上その他の理由で自分の子供にこのビデオを見せることについて問題がある人はぜひクレームしてください。」これは、子供の学校から配られたチラシである。

こうしたチラシでは、ことあるたびに親の権利が明示される。相手の権利を明示することは学校の責任でもあるのだ。

市の税金の請求ではこんなのもあった。「この住所に住んでいる方へ、この住所の居住者には一年間で上記の金額の税金が発生します。一週間以内にクレームがなければ、期日までに税金を納めてください。」

これはいってみれば、「個々の事情はいろいろあるだろうが、いちいちあらかじめそのすべてに気を回すのは大変である。したがって、いったんおおざっぱにこう決めるから(たいていの場合多めの金額を請求する)それでは都合が悪い人はそれぞれ事情を説明してください。」というスタンスである。

このシステムはクレームを受けることを前提に動いていると言っていい。だからこちらとしては非常にめんどくさいのだか、市役所の窓口(街なかに出張所がある)に行っていちいちクレームを申し立てることになる。

「この請求のうち半分は前の住居者のものである。われわれは学術関係の滞在者でイギリスでの収入はない。うちには妻と二人の子供がいる。日本でも税金を払っている・・・などなどなど」、数分間のこうしたインタビューによって窓口の職員は、「あなたのケースではこれこれこういう金額になりますね」と請求を再提示してくる。必要であれば署名いりの理由書もつけてくれる。

電気やガス水道などの使用料は、しばしば専門の「料金回収会社」から請求が来る。請求書には「配給会社からこれだけの使用料を回収しろと依頼を受けたが、もしクレームがあれば差し戻す」なんて書いてある。われわれも、身に覚えのない料金を請求されたことが2度ほどある。いちどは「前の人が契約したインターネット定額使用料(このケースの場合、住人が変わっているを知っているにもかかわらず請求が来た)」もう一つは「住んでない時期も含まれるガス料金」である。

どんな対応をされるかおっかなびっくり電話をしてみると、たいていあっけないほど簡単に「OK。そちらの言い分は正しい。その請求書は捨ててくれ」なんてことになる(相手の請求はほとんど「ダメもと」で送ってみたという感じである)。

「説明責任」というのもこういう社会においてはじめて生じる概念のようだ。時には屁理屈のようなものもあるが(ブリテン島萬報の自転車屋の店員とのやりとりを思い出してほしい)、とにかく自分の行為に対して客観的な説明ができなければならないというプレッシャーがこの社会にはある。

自分の意志を表明すること、自分の行為を説明すること、この二つは子供たちの学校教育を見ても繰り返し強調されているように感じる。毎日午後の休みに出てくる牛乳は自分から「ほしい」といった子しかもらえないし(日本では飲めない人も無理矢理飲まされる?)、子供たちがひとりずつ親や全校生徒の前でなにかを発表する機会がクラスごとに毎週もうけられている(英語がうまく使えない子は絵や歌によって表現する)。

「『痛い』と言わなければ誰もたすけてはくれない」というのもイギリスではよく聞く話だ。「クレームを出さなければ何をされても仕方がない」これは逆にいうと「クレームがなければ、基本的にそれをしてもいい」という暗黙の約束でもある。

クレーム社会はこの意味で「ずさん」な社会でもある。まるで「こちらがどんなに気を遣っても他人のことは解らない」とはじめからあきらめているようにもみえる。

日本のように、なるべくクレームが出ないようにあらかじめ気をまわす「こまやかな」社会とはそこが対照的である。日本のような社会では、とくにクレームをださなくても周りがうまくやってくれる。時にはうっとうしかったりおおきなお世話である場合もあるが、基本的に「他人が私に対して悪いことをするはずがない」という性善説を前提に生活ができる。

逆にクレームをいうと、「こちらがこんなにしてあげているのに、なんでそんな『文句』をいうのだ」と受け取られてしまう。税金のやりとりにかぎらず権利の主張は、本来、単純に利害や見解の不一致を明示するためのものであるが、それがしばしば悪意とか善意というレベルの感情的な問題にすり替えられてしまいがちである。

英語の「クレーム」という言葉が外来語として日本語にうつされるときに、苦情や文句というような否定的なニュアンスが強調されたという現象は、それぞれの文化において「個人の意志の表明」がどのように認識されているかを考える上で非常に興味深い。

イギリスにおいて「クレーム」というのは理解しえない他人と共存するための重要なコミュニケーションの手段である。日本において「クレーム」とは理解しあえているはずの他人との関係をおびやかすあぶない主張である。

これは交渉決定型社会かそうでない社会かという違いで説明することもできる。世界にはイギリスよりももっとシビアな交渉決定型の社会がある。そういう社会で苦労している日本人をよく見かける。たとえば市場などで高い値段をふっかけられ、おかしいと思いつつも相手に言われるがままにお金を出している日本人観光客である。

実際には、たんにめんどくさいか、交渉が苦手なだけなのだが、「わずかなお金を巡ってぎすぎすしたくない」「けちくさいのはみっともない」「あえてクレームを出さないことによって度量の大きさを示す」などと自分の行動を合理化する説明もしばしば口にされる。しかし、皮肉なことにこうした交渉の場ではこの手の日本的美徳はほとんど通じていないのである。市場の相手に大盤振る舞いしたところで、かえって「無能か、カモか、傲慢なやつ」と思われるのが、残念なことに、関の山である。

さて、今回は「クレーム」という言葉の受け取り方を巡るイギリス型と日本型を比較しながら「個人の意思の表明」が社会的にどのように位置づけられているのかを考えてみた。しかし、この両者のスタンスの善し悪しは一概に判断できない。社会の規模や、人間関係の濃密さ、文化の同質性によって、他者との交渉のありかたは変わってくるだろう。

日本型社会はその社会に適応していればきわめて居心地のいいシステムであるが、外部の者にとっては著しく不可解で不自由に感じるだろう。イギリス型社会はわかりやすくはあるものの、まずは相手の提案を疑ってかかり必要に応じて自己主張をするという前提を受け入れないと、不当な不利益を押しつけられるめんどうな社会である。だから、ある日本人の言い方をそのまま引けば「こんなところに住んでるとだんだん人が悪くなる」のかもしれない。

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