[KOK 0240] こくら日記のトップページにとぶ 09 Mar 2004

メメント・モリ

 

なんの気なしに受けた人間ドックで、足止めをくらった。エコーをかける検査技師が妙に緊張した面持ちで、なんどもなんども「姿勢をかえてくれ」と私をひっくり返す。「胆嚢にポリープがある」と、医者がちらりと漏らす。「でもまあ大丈夫でしょう」とその場は帰された。が、後になって「CTスキャンを使っての再検査が必要です」との案内が家に送られてきた。封筒の中にはさらにのり付けされた封筒があった。医師への紹介状だ。そのまま検査を受ける病院に持っていくようにとある。

タコチュウ

予約をとってCTを受けに行った。紹介状は受付の人に渡した。中になにが書いてあったのかわからない。ずいぶん待った。呼ばれて部屋にはいると、トンネル状の機械があり、造影剤を注射された。「なんですか?」ときくと「ヨードです」という。「ワカメなどの海草にも入っているもので・・身体が熱くなります・・」と副作用のことなどを説明してくれる。ヨードが身体にまわるまで5分ほど待つようにと言われる。予告通り身体が熱くなった。

従順な被験者は「どこを調べるのですか」とできるだけさりげなくきく、技師は作業の手を休めず「肝臓です」とさらっと答える。

「肝臓ですか・・・」それを聞いたとたん妙に納得がいった。若い頃にいわゆる「黄色い血」を輸血された私の父は、それが原因でなんども肝臓を患っている。肝臓の疾患としてしばしば耳にした言葉、C型肝炎、肝硬変、そして肝臓癌。幼い私にとって肝臓はもっとも身近な臓器だった。

ドーナッツの中をくぐりながら、ばかばかしくもくだらない原因を次々と思い探る。学生の頃は、知床の縦走でたまり水を飲んだ。キタキツネが媒介するエキノコックスという原虫が10数年かけて増殖し、肝臓をスポンジ状に変えてしまうと脅されながらも「10年後かぁ」と笑いながら、喉の渇きに耐えられずにその水を飲んだ。あるいは大学院生の頃ソロモンの調査地でなんども苦しめられたあのマラリアが巣くっていた場所も肝臓だし、そのうえそのあと抗マラリア薬で急性肝炎にもなっている。はたまた最近モンゴル族に敗北したあの時のダメージではと・・。

肝臓であればしかたないかもしれない。そう思った。

アーモンド

検査結果はすぐには出なかった。「一週間後にもう一度来てくれ」と言われた。

さほど深刻ではないにせよ、多分にメランコリックな気持ちで、死を想った。

いくらなんでも「今すぐに」という事態ではないだろう。でも、もし一年なり二年なりというふうに時間を区切られたらどうしようか。もちろん、それはこういうときによくありがちな妄想にすぎず、ただの妄想であってほしいと心の中で強く願いながらも、次々に湧いてくる考えを止めることができなかった。

生きる可能性があるのなら闘病という選択はあるだろう。私は多分そういう選択をする人間だ。でもその可能性が低くなったとき、次にどんな選択をするのだろう。

たとえば一年の猶予があったとしたら、今までであったいろいろな人にもう一度会いに行こうか。一番はじめに思い浮かべたのがそれだった。日本だけでなくソロモンやマレーシアやバヌアツの友人たちにあいさつにまわること。もし死ぬとしたら、その前にもう一度行きたい場所や、もう一度会いたい人がいる。最後の私を記憶にとどめておいてもらうために。でも、実際にそれを実行に移したとしても、これから死ぬはずの私が、これからも生きていく人に会ってまわるなんて、とてもとても耐えきれない気がする。こんな運命の理不尽さを乗り越えられるほど私は強くない。

次に考えたのは、ひとり静かに好きな場所にこもりそのまま死を迎えるということだ。好きなことだけをして、好きなことだけを考えて、ひとり死を待つ。しかし好きなことってなんだろ、どんな美酒でもその喜びは生きる未来につながるからこそだ。死を忘れられるほどに私が楽しめる事なんてとうてい思い浮かばない。

思いかえせば、10代後半から20代にかけて死は私のもっと身近にあった。今よりずっと頻繁に私は死を想っていた。あのころの私であれば、死ぬ前にもっと見たいもっと知りたいもっと会いたいと、焼け付くような焦りと欲望にまみれながらあがいただろう。それは、そんなに昔のことではない。今からほんの10年ほど前までたしかにそんな気持ちで生きていた。ひさしぶりに死を想い、私は自分の生に対する姿勢がどこか変わってしまっているのに気づいた。

かつて生に対して前向きだった私の心は、今はどちらかというと生に対して後ろ向きになっている。でもそれは決して悪いものではない。

桃の節句

悩みに悩んだ末、ひとつの結論に到った。生を限られた時、私が一番したいこと、私がすべきこと、それは、私が今まで見てきた風景、私が考えてきたアイデアを、誰かに伝える作業だ。私の頭の中にあるもろもろのイメージを、私がここにいたという証として記録し遺す。

一年という時間、あらゆる欲望やほかごとをすべて断ち切って、ひたすら文字として記述し、表現として描き続けたい。それが死を超越するための唯一の幸せであり、苦しみだろう。いつかそれを手に取ってくれる人のことを思えば、自らの死を前にささやかな満足感が得られるだろう。それが精一杯の、しかも悲痛な結論だった。

私が死ねば半年のうちに大学の研究室は整理され、私の蔵書は散逸するだろう。でも、たとえばウエッブサイト上の「大介研究室」はどうなるのだろうか?インターネットの海に浮かぶ幽霊船のように更新されることのない記録はいつまでも漂いつづけるのだろうか?そうして主のいないあとも「お客様相談室」には投稿がたまっていくのだろうか?いや、なにもそんなに不気味がる必要はないかもしれない。著者が死んだあとに書籍が残るように、記録というのは本来そういう性質をもつのであるし、たぶんそれこそが私の希望だ。

数週間私を陰鬱にさせた検査の報告を、今日うけた。10分割に輪切りにされた沈黙の臓器の写真を前に医師は「憂慮すべき問題は特に見あたらない」と所見を述べた。病院の自動ドアをあけたとたんに流れ込んできた春の空気は命にあふれていたが、私は宙づりにされた子犬のようにふるえていた。

まるですべてがフィクションのようだ。しかし死を前にして私が選ぶであろうひとつの結論は深く記憶に残っている。それは、たとえ生の延長を許されたのだとしても、これからこうして書かれた文章は、すべて私の遺書を構成していくだろうということだ。

死は生の対義語ではなかった。死ぬことは生きることであり、生きることは死ぬことだった。冬と春がせめぎ合う街頭でバスを待ちながら、ふと西行の歌が浮かんだ。

 願わくば花の下にて春死なむ この如月の望月の頃

桃の節句


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