[KOK 0242] こくら日記のトップページにとぶ 20 Apr 2004

情報操作と共通知識

 

チョムスキーのドキュメンタリー映画を大学で上映してからまもなく一年がたつ。

映画公式ページ
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映画の中でチョムスキーは、アメリカ合衆国が20世紀の後半に中南米の国々に対して繰り返しおこなってきた政治介入について語っていた。経済封鎖によって貧困を生みだし、不満層に武器を売り、クーデターを起こさせ、虐殺と拷問を日常化し、テロ防止と治安維持を名目に米軍を送り、親米傀儡政権を打ち立て、復興援助と称してアメリカ企業を進出させる。

キューバ・ペルー・ニカラグア・グレナダ・ニカラグア・エルサルバドル・グアテマラ・ブラジル・アルゼンチン・チリ。中南米の国々の多くが「よき隣人政策」という名の下にアメリカ合衆国の経済侵略の標的にされてきた。

私が驚いたのは、調べればいろいろな場所に書いてあるそんなアメリカの現代史について、あらためてチョムスキーに指摘されるまで、自分自身がほとんど意識していなかったということだ。ボリビアのウカマウ集団がつくっている映画の謎が、十数年ぶりにしてようやく氷解した。遅すぎである。

ウカマウ集団の映画のページ

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アメリカ合衆国とは、第二次世界大戦やベトナム戦争以後も一貫して戦争を続けている世界で唯一の国であり、なにも今回のアフガニスタンやイラクだけが特別だったわけではない。

さて、それでは、なぜこれほど情報システムが発達している近代社会で、実際に扱われる情報がゆがめられてしまうのだろうか。

政府や大企業や金持ちは、マスコミのオーナーやスポンサーになり、自分たちの都合の良いことばかり流し都合の悪いことを隠蔽すことによって情報そのものを操作する。日本のマスコミは一時期からサラ金の問題をほとんど取り上げられなくなっているし、トヨタが有力スポンサーであり電通が仕切る愛知万博の批判記事はすっかりみなくなった。地元でも反対者はたくさんいるのにね。

あるいは意図的に人々の不安をかき立てるような情報を流したり、共感を得やすい家族愛に問題をすりかえたりして世論を操作する。北朝鮮や皇室の報道はその典型だろう。

これらがチョムスキーが警告する古典的なメディアコントロールである。一般的に情報操作について語られるとき、上の2点の弊害についてはよく指摘される。しかし、単純に問題はそれだけではないようだ。ゆがめられているのは情報そのものだけではなく、おそらく解釈なのだ。

たとえば最近の日本でよく流通している言説として以下のようなものがある。「北朝鮮はこわい国だ」「自衛隊は復興支援のためにイラクに行っている」

しかしある程度新聞やテレビを見て、ふつうに判断ができる人であれば、こうした言説を文字どおり真に受けている人はほとんどいないだろう。

経済状態ががたがたで日々の食料にも事欠く国と、アメリカをうしろだてにして世界第8位の軍事力を持ちしかもきわめて好戦的な首相を担ぎ上げる国と、どっちが「こわい」か。北朝鮮の人々の将軍崇拝や一糸乱れぬマスゲームを独裁的だと恐れるのであれば、日本の与党の一翼を担う某政党の支持団体のマスゲームや会長に対する熱狂はどうなるのか。

あるいはイラク。そもそも、「本当に」復興支援のためなら、そんなに意地になって戦闘地域に完全武装した兵隊を送らなくてもよい。あらためて指摘するのも野暮なくらいだが、日本の為政者の目的は復興支援ではなく、海外派兵という軍事拡大の実績を積みたかっただけである。

それに対し「マスコミで語られているような言説はあくまでも政治的な建前であり、その意図する本音は別のところにあるのだ」なんて斜に構えて言うくらいのことは誰にでもできるが。しかし事はそう単純ではなさそうだ。その解釈のゆがみを生み出すメカニズムとして、さらに巧妙な仕掛けがあったのだ。

儀式は何の役に立つか―ゲーム理論のレッスン

「儀式は何の役に立つか―ゲーム理論のレッスン」を読んだ。その中で非常に印象的な記述があった。儀礼や演説が政治的にはたす役割においてもっとも重要なのは、語られる内容を広く知らしめることではなくて、多くの人々がそれを聞いたという事実を、そこにいあわせた参加者たちがそれぞれ確認していることだという。

かえってわかりにくくなるかもしれないけれど、慎重に書こう。「『そこにいたみんながその情報を知っているということ』を私が知っている」それが儀礼や演説の効果というである。たとえ情報の内容が間違っており私がそれについて疑っているとしても、ほかの人たちも同じように疑っているということを私が確認できないかぎり、私の疑いは価値をもたない。

本の中ではこの現象を共通知識の形成あるいは公共化と呼んでいる。ここではその情報が真実か否かということは問われない、どんなにおかしな情報であっても、みながその情報を知っているということを私が認めた時点で、その情報は価値を持ち流通しはじめるのである。

たとえば先に述べたとおり私は、私なりに情報から判断し「個人的」には北朝鮮をアメリカほども危険な国だと思っていない、あるいはイラクに自衛隊をおくる目的は海外派兵の事実をつくることだと思っている。

しかし、その一方で、テレビや新聞が毎日のように流している情報から、「たぶん多くの人たちは北朝鮮が危険だと言われていることを知っていて(実際にその人たちが危険だと感じているかは関係なく)また、多くの人とたちがイラクに自衛隊を送る目的は復興支援であると言われているということも知っているだろう(実際にそんな建前を信じているかどうかは関係なく)」ということを私は知っている。

そして、こうした共通知識の中で日常生活を送っている私は、たとえばなにかの冗談の時に「北朝鮮に拉致されるかもよ」なんていう発言や「もしかしてあなた大量破壊兵器隠してない?」なんていう発言を通して同様の共通知識をさらに流通させてしまうのだ。みなが知っていると思っているからこそ、その情報が冗談として使えるのである。

貨幣の価値が貨幣そのもの自体ではなく流通することにあるのと同様に、相手に受け取ってもらえる情報はその内容が何であっても価値をもってしまうのである。近代以前の社会において人は儀礼や演説という行為を通して共同体の公空間を構築してきた、私たちの認知能力に関係するこの特異的な性質こそに、近代社会のマスコミニュケーションのもっとも危険な罠がある。これは強く意識しておいてよい問題である。

さて、朝鮮民主主義人民共和国に連れ去られた日本人の問題について私は前々から大きな疑問があった。それは、あの人たちが今までかの国でどのような仕事をしながらどのように暮らしていたかということである。これほど毎日ように感情的な報道が繰り返されているにもかかわらず、すでに帰国した被害者の口からもマスコミの報道からも一切この話題を聞くことはない。

朝鮮民主主義人民共和国の政治体制を支えるための重要なポストに就き、それなりに豊かな生活をしてきたのではないかと、私は邪推している。そして彼らのもたらす情報は日本国にとっては非常に重要な政治機密であるがゆえに国民には知らせず世論操作や外交に利用したいのだろうと、私は邪推している。だから遺骨が本物だ偽物というやりとりは茶番にすぎず、その裏でかの国から帰れない人々には帰せない事情があるのだろうと、私は邪推している。

ここまで丁寧に読んでくれた方にはもうおわかりだと思う。私の邪推が的を射ているものなのかどうかはわからない。しかし少なくとも「こくら日記」の読書子のあいだの共通知識として、情報を疑い邪推するだけではなく、その疑問を広く伝えることによって公共化しなければならないという抵抗の戦略が示されたのである。


くどいようだがここで注文できる。

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