[KOK 0261] こくら日記のトップページにとぶ 13 Oct 2005

野の芝居

 

野の芝居
水族館劇場のページ

いまどきの小学生は社会科の時間に昭和時代の暮らしを学ぶ。台所の出口には珠暖簾がかかり、玄関にはダイヤル式の黒電話、花柄のポットに、テーブルクロスがかかった食卓。過去は知らぬ間にコンパクトに折りたたまれ、時代ごとのラベルがついた透明なガラス瓶の中にしまわれていく。戦争とデモストライキとテレビとロックンロール。きな臭いセピア色の時間から、ささやかなマイホームに明かりがともる団欒の時間までが詰められた、真新しい瓶。そこで昭和は乱暴に蓋をされ、そして終わった。

昭和時代の半ばすぎに生まれたテント芝居が、ガラス瓶の外にひとつこぼれ落ちている。昭和という時代と闘ってきたテント芝居が、周りを見回すと置いてきぼりを食らったまま、ついうっかり21世紀になってしまった。

野の芝居

さあて皆の衆。テント芝居は私たちを誘う。これはノスタルジアかい?闇の中で焚き火に照らされて映るのはどこかで聞いたことのある遠い物語。忘れようしても忘れられない血塗られた歴史。いいえ、私たちは本当は誰一人そんな時間を知らない。造られた廃墟の中で謳われるのは造られた近代だ。自分がどこから来たのかを探すうちに、私たちはみな道に迷う。

ノスタルジア。誰も知らないふるさと。神楽が古代と別れ、能が中世と別れ、歌舞伎が近世と別れたように、テント芝居はようやく昭和という近代と別れて旅に出た。闘うべき父も、護ってくれるはずの母も失って、幼年期を終えたテント芝居は野に放たれた。もはやそこはアンダーグラウンドではない、どこまでも草が生い茂る広いフィールドだ。グラスホッパーがポップに跳ねるサバンナだ。

野の芝居

芝にすわって見るから芝居という。演劇とは、役者と観客がたった一度の邂逅を楽しむ贅沢な芸術だ。そして旅もまたいつだってそんなものだ。だから芝居が旅するのは、宿命なのだ。船が海を越えて島を渡るように、日常を忘れさせるしかけ舞台の上で、役者と観客はあやうい境界を越えていく。

野の芝居

人類学者の私もまた、フィールドという舞台の上で演じられている当たり前の生活を追い続ける。しかし人類学者は客観的な観察者ではない。観客のつもりでいても、いつの間にか舞台の上で自らの役回りを演じさせられている。人は決して安全地帯から他者を観察できない。だれかの心をのぞこうとする私の心はすでに他のだれかにのぞかれている。

異郷に置かれた置かれた私は、なんともみじめでちっぽけでたよりない。しがみつこうとするささやかな常識さえも崩れ落ち、孤独感にさいなまれ、ぼろ切れのようにうちのめされる。しかしながら、緊張と混乱のはてに脳髄はますます冴え渡り、視線はいつになく研ぎ澄まされる。流転しとどまることをしらない万物の生と死の彼岸に、私は知らぬはずのまほろばを見る。いつか帰るべき場所を見つける。

野の芝居

かつて人類は離合集散を繰り返しながら、大陸や大洋を流浪した。私たちの原初の記憶はふるさとを捨てたディアスポラの群れだ。私はヒトはどこから来てどこへ行くのか、それを知りたくて旅する学問の道に入った。生きた知恵をみつけるために権威と自己はとりあえずいらない。必要なのは履き慣れた靴がひとつと、汲めどもつきぬ好奇心。

敵は優しくしたたかだ。ひとつところにしがみつき、白か黒かと相手に迫る硬直した群社会は、恐怖と不安を使って支配をもくろむ管理主義の思うつぼだ。生臭いイヤシなど求めるな。ガラス瓶の中で標本にされるのはまっぴらごめんだ。整理棚にしまわれる前にひとりひっそり旅にでよう。しなやかな遊撃戦こそ旅するものの特権だ。道に迷うことをおそれてはいけない。火いつもゆくてを照らし、水はわたしたちの喉を潤すだろう。神出鬼没な盗賊のように、融通無碍に手を替え品を替え、時に踊り、時に歌い、時に笑い、野に放たれた劇場は旅を続ける。

野の芝居

さあて皆の衆。まもなく芝居がはじまるよ。ここで見逃したらもう次はないよ。あてどない明日より今日を楽しめ。重い荷をすて軽やかに。果てしなく続く草原のこの広い舞台。頭上に広がる空は、すべて、すべて、すべて、きみだけのものだ。コンクリートの街のほんの隙間の荒れ地の中に、ぽっかりと浮かんだ月。ここから未来は続いていく。

野の芝居


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