[KOK 0279] こくら日記のトップページにとぶ 22 Feb 2007

袋小路実篤

 

年が明けてから学年末にかけては毎年いそがしい。ようやく論文指導がおわったかとおもうと定期試験に入学試験、学会が続いてほっと息をつくともう新学期だ。

今年もまた頭が痛くなるほど凡庸で、判で押したように個性のない700枚ものレポートを読んだ。レポートの質は、年々ひどくなっているように感じる。これは文章力の問題というよりは、生き方に対する姿勢のように思う。このごろの傾向では、かろうじてなにか疑いを発見している感じの面白いレポートは100枚に1枚あるかないかだ。

根性がある人は、公開を前提としたレポートにかぎり4月はじめまで下記のホームページから閲覧することができるようにしてあるので、実際に全部読んでみてほしい。ネット人類学>人類学概論。

bize

今年の人類学概論では「交換と贈与について」「他者とはなにか」について重点的に取り上げたのだが、提出されたレポートを読むにつけ、俗に世間的に言われている建前としての関係性(「人に優しくしよう」とか「人間は利己的だ」とか)を疑うことなく本気で信じている(それしか書けない?)人が増えているように感じられた。

5年ほど前までは、常識が隠蔽する建前の虚構性を暴いて、その本音を露わにするなんていう、そんな斜に構えた、「いかにも大学生らしい」レポートを散見できたものだが、そういうたぐいもめっきり少なくなった。批判という以前に本音と建前の区別がついていない。議論も自分から半径10メートル以内の世界で袋小路に陥っており、たとえば私という読み手に対するメッセージや主張すらない。

社会に対する疑問はおろか、ほんの身近の他者に対する働きかけも抑圧し、はや抑圧していることの自覚もなく、その結果必然的に生じる軋轢や不適応は、「まだ理想の規範や本当の自分を見つけていないせいに違いない」と信じ込む。ほどほどの幸せを満たそうとする自己完結型の心理主義も、ここにきわまれりといった感じだ。

ここまで厳しく書いても、いったい私がなにを憂いているのか、ピンとこない人も多いだろうと思う。

bize

具体例を挙げよう。これらのレポートによく出てくる典型的な言葉遣いが「偽善」と「傲慢」である。

【例1】たとえば、助けを求めているAがいる、私にはAを助けたい気持ちはあるのだが、それは私の偽善かもしれない、少なくとも第三者Cは私の行為を偽善ととらえるかもしれない。偽善はよくない。だから私はAになにもしない。私がAを助けないのは利己的だからではなく、むしろ助ける方が利己的なのだ。

【例2】私はDが間違っていると思う。しかしDにそれをいうとDから傲慢と思われるかもしれない。たとえ厚意からそれを指摘したとしても、傲慢と思われるようなことをするのならば、それは私の自己満足にすぎないだろう。自己満足はみっともない。ましてや私は傲慢ではない。だからDにはなにも言わないでおこう。

多くのレポートに見られる他者関係とは、こんな身勝手な推論の上に作られた虚構の世界である。本音と建前が混乱し、自己中毒に陥っている。そして、そんなときによく「他人に迷惑をかけたくないから」といういいわけが使われる。他人に迷惑をかけないためならば、どんな迷惑なことだってできてしまうというわけだ。

こまったものだ。今日もまた採点をしながら何人ものそんな実篤君に出会うのである。


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