【狂122】寝た子をおこす

96/1/14

■年が明けた。年始むけのネタだろうか、このごろインターネットものの話題がおおい。やはり年あけは未来を語らなければならないのだ。しかし、一時期みられたある種のものめずらしさを紹介する論調から、最近はちょっとずつ変化しているように思える。

■とくにめだつのは、インターネットの規制にかんするテーマである。あるいはインターネットの有害論である。

■いつの時代でも新しいメディアが普及してくると、必ずそれに対する有害論が登場した。テレビ有害論、マンガ有害論、ファミコン有害論。たいていの場合「新しいものに安易に飛びつかず、旧来のメディアをもっと見直そう」というのがこの手の有害論の論調であった。ときには、これらの有害論もけっこう説得力があっったりしたのだが、残念ながら現実の勢いの前に立ち消えになってしまうのが、パターンであった。

■インターネットの場合はどうなのだろうか。

■テレビのニュース番組でこんなのがあった、アメリカのテロ犯罪で電子メールがその打ち合わせつかわれていたのだという。「電子メールが犯罪に荷担していても、それを取り締まる法律がないのだ」といってニュースキャスターは嘆いていた。(しかし、電話で打ち合わせれば問題ないのか、手紙だったらどうだ、郵便局員を逮捕するのか。)

■また、ハッカーなどの取材から構成した「電子社会のおそろしさ」なんて話も、しきりに報道されている。なんでも、ハッカーにかかれば「銀行や軍隊のセキュリティなんてちょろいもん」だそうであり。こうしたハッカーたちが互いに情報交換しあいながら平和な市民社会の裏で暗躍しているそうである。そして「あなたの大切な情報も、いつ盗まれてしまうかわからない」のである。まったくたいへんな時代になったものだ。

■もっとも多く喧伝されているのが次の議論だ。いわく「インターネットはだれでも自由に情報を提供できるから危険である。たとえば、ポルノ画像や爆弾の作り方、麻薬に関する知識など、公共の場にふさわしくない情報まで提供されてしまう」のだそうである。(ついでにいえば、爆弾や麻薬にかんする知識は、いままでは大きな図書館にでもいかないと手にはいらなかったそうである、逆にいえば図書館にいけば手にはいるのである)

■日本社会でとても受け入れられやすいのが、「寝た子をおこすな」という論理である。この国では、大衆を扇動するような情報をながしたり、人を洗脳しようとたくらむのは非常に悪いことであるとされる。おもしろいことに、こうした論理の中では、それをうける側の主体がいちじるしく矮小化されている。「いわば『大衆』は無知蒙昧な幼子なのである」と『進歩的』な『知識人』や『市民』たちが指摘するのである。

■かつて私のいた大学にもこんな議論があった。「原理研をキャンパスに入れるな」。原理研というのは統一教会のことである。いわく「原理研は、非常に危険でまちがった思想を持つ集団である、また彼らをめぐって社会的なトラブルも多い。彼らの勧誘によって学友たちがまちがった道に進んでしまうかもしれない、だから大学構内にはいっている原理研の人間をみたら、ただちに追い出そうではないか」。

■こうした議論をきいていると、なんだかとっても不思議な気がした。だって、「原理研をキャンパスに入れるな」っていってるほうも学生なら、勧誘されてまちがった道に進む危険性があるのも学生で、そのうえ原理研の人も学生だったりするわけだ。知恵のある人は、知恵のない人を、よけいな知恵からとうざけてあげる、といった「大きなお世話的理論」が正論としてまかりとおってしまうのである。

■インターネットにはこうした悪意の情報やまちがった情報がみちあふれていて、しかもそれらの情報はだれの検閲もうけずに公開されるので、非常に問題なのだという。新聞やテレビなどのこれまでのメディアは、責任をもった人が、仕事として情報を流していたので信頼性もたかく安心なのだそうだ。

■その一例として「オウム真理教の教祖が逮捕された時期に商業ネットワークに、教祖擁護の書き込みが大量になされていた」という記事を、ある新聞があげていた。「きちんと検閲をしないからこういうことがおきてしまうのだ」、という文脈である。(もちろん商業ネットでも検閲はおこなわれている、ただこの手の書き込みが削除される条件を満たしていないだけである)。

■だれが、だれのために、なにを目的として、検閲をするのだろうか。たしかに、表面的には問題はおおいかくされ、トラブルはへるだろう。変なことをする人はどこにでもいる。差別や個人的中傷を公開された場所でなされることもあるだろう。しかし究極的には、こうした検閲が、情報をうける側全体の利益になるとは考えられない。問題は、情報を受ける側の文化が成熟していないこと。そして、検閲をすることによって利益をえるものが一部にあることである。

■狂電上でなんどもくりかえしているが、「基本的になんでも勝手に書けばいいのだ」と私は考えている。もう少し高等ないいまわしをつかえば、「情報は雲固のようにたれ流されるべきものである」となる。情報の問題を考えるとき、これまではあまりに送り手中心の議論が多かった、しかし、重要なのは受け手である。なにを書いても、読む人がそれをどう理解するかで、その情報のもつ役割が決まる。送り手なんか、ちっともえらくないし、実はどうでもいいのだ。

■さて、「このごろの狂電は主観が強すぎる」という批判をもらった。また「大介教の布教のようで、ほっておくと洗脳されそうなので、なるべく読まないようにしている」という声もきいた。ちょっとおちこんだりもしたけど私は元気です。

■主観というのは私の好みのことでしょうか、ならば「このごろ」もなにも、はじめから狂電は主観の固まりです。読みたくないということであれば、送らないようにするのは簡単です。(「大介教」発言をした人はそのあと「冗談だ」といったので、まだ登録されたままである。)

■いずれ狂電は完全にWWWに移行するので、電子メールはそのときまでの暫定的な措置です。今のところ、こうしないと私のたれ流す情報が人々に届かないのです。さらにいえば電子メールでも届かない人がいるから、ときどき郵送したりするくらい迷惑な新聞なのです。WWWなら不特定多数の人が、世界のあちこちから(日本語だけど)好きなときに狂電を読めるからいいでしょ?

■せっかくこんな便利なメディアがあるのですから、みなさんもたれ流してください。検閲だの規制だの、ばかな話がまかり通る前に、寝た子をどんどんおこしましょう。(途中でデスマス調にかわっているのは、なぜだろうか?)


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