マージナルな時間

【狂155】

96/04/12


今日、京都から荷物がとどいた。ようやく、10日間にわたる、空白の時間が終わりを告げた。時間について考えた。近代西洋的思想がうみだした「均質な直線の上を後戻りできない時間が流れていく」という概念は、いかにも貧弱で面白味がない。

時間とは、あるいは、すくなくとも人間の脳の中で生み出される時間の概念とは、時計の針のような、そんなに単純なものではない。

むかしの狂人新聞で台湾の蘭嶼について書いた。そのとき、彼らが持っている循環する時間の概念についてちょっとふれてみた。蘭嶼の人たちにとって、時間は何度でも循環するもののようであった。

今日、考えたのはマージナルな時間である。たそがれどきでもいいし、かはたれどきでいい。ふたつのモードの異なる時間のあいだには、かならず境界時間が存在する。

そうした境界時間は、どの日常にもぞくさない一種独特な時間である。たとえば、桜の花がこわいのは、あの植物が露骨にマージナルな時間を演出してしまうからである。[枯れ枝<花>葉っぱ]

この数日間わたしがすごした境界時間は、図式するとこうなる。[暖かい布団<寒いねぶくろ>暖かい布団]。あるいは、わたしは三月からここ一ヶ月ちかくなんの仕事もしていないが、それを図式するとこうなる。[研究<宴会>研究]。

境界時間に出会った人は、どこか特別である。わたしにとって生涯忘れられない人の多くは、この境界時間に出会っているような気がする。たとえば、[高校生<浪人>大学生][受験生<試験終わって合格発表待ち>大学生][大学生<春>大学院生][京都大学の学生<国立民族学博物館の非常勤>北九州大学の常勤]

乱暴にいえば、京都の12年にわたるモラトリアムな生活全体も、ひとつの境界時間だったような気もする。[名古屋<京都>小倉]。[日常<電車でGOGO>日常][日常<どるみいる>日常][日常<探検部>日常][日常<人類進化論>日常]

人は、時間を渡り歩きながら、ときどきマージナルな時間におちこみ、そしてまた新しい時間にもどっていく。危ういのは、どちらかの日常性が崩れたときだ。たとえば、[日本<ソロモン>日本]が[ソロモン<日本>ソロモン]になってしまった時とか・・・。でも、それを選ぶことが、たぶん生きるということなのである。

今回の境界時間[暖かい布団<寒いねぶくろ>暖かい布団]、にもいろいろなことがあった。その結果かどうかは知らぬが、狂電は廃刊となってしまった。(でも、ほんとうに、たのしかったよ。ヒデサン・モモチャ、またねぇ)

どうせ一回しか生きられないのである。自分のすきな時間に生きていけるのが、いちばん幸せだ。すでに、わたしにとって、今の日常にこだわる根拠はどこにもない。

さても、南の島にいきたい。大阪のヤクザも言っている「ミナミのシマ守るために、わしら命はっとるのや」。

時間の話とは直接関係ないが、[日本<沖縄>南洋]と考えたときに、沖縄がわたしにとってどんなに大切な場所であるかが見えてくる。大田知事はまるで一国の元首のような威厳をたたえている。わたしはその誇りを尊敬する。だから、今、沖縄にいきたくていきたくてたまらない。たぶん、近いうちに我慢できなくなっていってしまうと思う。

あああ、でも、どうしよう、日常にもどるのがこわいよう(笑)。荷物をみながらぞっとする。


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