狂人電子通信廃刊のお知らせ

【狂156】

96/04/12


電子メイルのおもしろさを感じながら、ずっと狂人電子通信を書いてきた。コンピュータネットワークは、きわめて個人的な情報を、簡単に不特定多数に流すことができるという意味で、これまでにないメディアであった。

電子メイルの特殊性はそれだけではない。「わたくし」と「おおやけ」の境界をあいまいにし、個人の領域がどんどん外に漏れだしていく。

人は、意識的にしろ無意識的にしろ、他人の前でいつもなにかを演じながら日常生活を送っている。ところがコンピュータを前にすると、ふっと、そういうものがなくなってしまうことがある。読み手や聞き手のことをわすれて、ときおり、自分の世界に埋没してしまうのである。だからといって、もちろん、その時の自分が「本当」の自分であるわけではない。おそらく「本当」の自分は、たくさんの他者との関係性の中で、日常的につくられている自分だろう。ただ、コンピュータとわたししかいない世界での自分は、きわめて無防備である。

「やばいな」と思った。うそとほんとの境がなくなっている。

清水義則は短編「モレパス係長」のなかで、他人の考えていることがわかるテレパシー能力のかわりに、他人に考えていることが漏れてしまう、モレパシーの能力を持ってしまった男の悲哀を書いているが。まさにそんな感じである。

コンピュータにむかってなにかを書くというのは、いわば個人的な作業で、ちょうど日記をつける時のように、ひとりごとや内省が次々とわりこんでくる。紙メディアや映像メディアでは、それが他人の手に渡るまでに多くの過程を必要とするために、結果的に内省は社会化され形式化されていく。郵便の手紙ですらそうである。

出してはいけないメイルを出してしまった。「中身に対する実感がありません」「なに書いたらいいのか、わかんない。なんで私に言うだかなぁ・・・」そのとおりだよね。わたしの作業は、あくまでもたんなる内省であるべきで、だれかに答えを求めてはいけなかったのだ。わたしはあくまでも演じ続けなければならなかったのだ。

そう、いっそのこと、これは公開日記(あるいは私小説)であると開き直ってしまえばよかったのかもしれない。狂人電子通信はだいすけの公開日記である、だからフィクションもあるのだと。公開できないことは、個人的なメイルでフォローする。

狂電をめぐって、わたしにメイルを送ってくれる人と、個人的にやりとりするのは、とても楽しかった。正直な話、狂電をかくことよりも、そちらほうが大切だった。ずっと反応のこない人に関しては、なんだかとても怖かった。フォローのしようがないのである。「この人はどう思って狂電を読んでいるのだろう?たぶんわたしのことを変なやつだと思っているだろうな」なんて。

それで、狂電をやめようと思ったこともある。(たぶんほんとは、たんに読んでないか、めんどくさいだけなのだろうけど、そんなことわかんないよね)。でも、そのことは本質的な問題ではない。だって、情報はたれ流されるべきものだからね。問題はわたしのスタンスである。

いずれにせよ、わたしは無防備すぎた。最近になってようやくこの危うさに気づきはじめた。電子ネットワークはまるで麻薬のように他人との心地よい一体感を提供してくれる。心と心がつながっているような錯覚だ。わたしは物書きや情報提供者としては、けっして素人ではないと思っているが、それでも、この麻薬におぼれてしまいそうである。演じられなくなったらもうおしまいである。

ちょっとのあいだ、考えてみようと思う。

どうせこんごも、ものを書くことはやめられないと思うし、どんなに悲しいことになっても、他者からはなれては生きていけない人間である。覚悟をきめなければならない。覚悟をきめるには少し時間が必要だ。

狂人電子通信はこの号で廃刊となる。とうめんは新しいやり方を考えながら、もんもんとしてみたい。たとえば、情報の出し方を、もう少し相互コミュニケーションができるように、かえられないかとか、どうせなら面識のない人が、平気で参加できるようなシステムにならないかとか、それと「大介まんが」も復活させたいな。ははは、でも、どうなることか。

 

 

 

 

でんわ
アカルサハホロビノスガタデアロウカ
 

 

 

 


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